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日常法話

2026年03月19日    木曜日     第1開示 合計4654開示

金剛経講解.なぜ一法もあって如来をして仏果を成らしめることができないのか

究竟無我分第十七原文:须菩提。于意云何。如来于然灯佛所。有法得阿耨多罗三藐三菩提不。不也。世尊。如我解佛所说义。佛于然灯佛所。无有法得阿耨多罗三藐三菩提。

解釈:須菩提、あなたはどう思いますか。如来は燃灯仏のもとで、何かの法を得て阿耨多羅三藐三菩提を得たのでしょうか。須菩提は言いました。世尊、私があなたの説かれた法義について理解するところによれば、あなたは燃灯仏のもとで、何の法も得ることなく、阿耨多羅三藐三菩提を成就されたのです。

世尊が燃灯古仏に出会ったとき、八地不動地の果位を証得し、心地は清浄無為であり、心中に情に当たるべき一法もなく、心中に著すべき一相もなく、一切の法を空浄とし、一切の法を捨てて、空空落落としていました。このときこそ燃灯仏は釈迦仏に成仏の授記を与えたのです。しかし授記によって成仏するというこの法相さえも空幻であり、証得した八地の果位も空幻であり、心地が清浄無為であるというこの法相も空幻であり、「一切の法を執しない」というこの法相も空幻であり、「内心が空空落落としている」というこの法相も空幻であり、いま世尊はすでに成仏して三界の尊となったというこの法相もまた空幻なのです。世間のすべてのものは、空幻でない一相もなく、真実である一相もありません。世間の中にない、不生不滅の金剛不壊の実相心 (dharmatā-citta) を除いては。それゆえ、仏は燃灯仏のもとで、法を得て阿耨多羅三藐三菩提を得たのではないのです。

原文:佛言。如是如是。须菩提。实无有法。如来得阿耨多罗三藐三菩提。须菩提。若有法如来得阿耨多罗三藐三菩提者。然灯佛则不与我授记。汝于来世。当得作佛。号释迦牟尼。以实无有法。得阿耨多罗三藐三菩提。是故然灯佛。与我授记。作是言。汝于来世。当得作佛。号释迦牟尼。

解釈:仏は言われました。その通り、その通りです。須菩提、実に一法もなく、如来が阿耨多羅三藐三菩提を得たのです。須菩提、もし一法でもあって如来が阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるのであれば、燃灯仏は私に授記を与えなかったでしょう。すなわち、あなたは未来世に必ず仏となり、名を釈迦牟尼と号するであろうと、また仏国土はどのようであるか、弟子はどのようであるか、仏法の流布はどのようであるかといったことを授記することはなかったでしょう。如来は実に依止すべき何の法もなくして、阿耨多羅三藐三菩提を証得することができるからです。それゆえ、燃灯仏は私に授記してこう言ったのです。あなたは未来世の某某の時に必ず成仏し、仏号は釈迦牟尼仏であると。

ここでの如来とは、明には五蘊身を有する仏世尊を指し、暗には真如心体である金剛般若心を指しています。仏の金剛不壊心は、無始劫以来、一法も得たことがなく、成仏というこの法さえも得ていません。神様は有所得心ではなく、貪得心でもなく、神様自身がもともと一切の法を円満に具足しており、一法たりとも欠けるところがなく、世間に存在するものはすべてこの心から生じているのです。仏法についても、真如心体は得るものがなく、神様はこれまで仏を学んだことも、法を学んだこともありません。しかし仏と法は、いずれも神様自身を指しているのですから、自分が自分を学ぶ必要などないのです。神様は戒定慧 (じょう) を修めることもなく、貪瞋痴を熄滅させることもなく、無明を破ることもありません。神様自身がもともと戒定慧 (じょう) を具足しており、無明も貪瞋痴もないからです。神様は四相や八相を除く必要もありません。神様自身は一相もなく、いかなる相にも貪著せず、相と相应せず、むしろ無量無辺の数多くの相を変造し出すことができるからです。それゆえ、如来は実に法を得て阿耨多羅三藐三菩提を得たのではないのです。

また、五蘊身を有する如来は、無相の真の如来心体に依止して、一法も得ず、仏法も得ず、身心の内外ともに浄裸裸、赤洒洒であって、一法もなく、真如心体と相应し、一切の法、一切の相を捨て、仏法さえもすべて捨てて、はじめて成仏することができるのです。心中に一法でも空浄でないものがあれば、仏道を成就することはできません。仏道を成就し、仏の果位を得たとしても、実際には得るべき仏果は何もなく、「得ない」というこの法さえも得ないのです。得る法のあるもの、相のある法は、すべて空幻であり、このようにしてはじめて成仏でき、それこそが仏世尊なのです。

原文:何以故。如来者。即诸法如义。若有人言。如来得阿耨多罗三藐三菩提。须菩提。实无有法。佛得阿耨多罗三藐三菩提。

解釈:なぜ実に法なくして如来が阿耨多羅三藐三菩提を得たと言うのでしょうか。私の言う如来とは、一切諸法の真如の義、すなわち一切諸法がもともと具えている理体を指しています。もし誰かが、如来は阿耨多羅三藐三菩提を得た、如来は成仏したと言うならば、それは如来が本当に法を得ることができるということを意味しますが、如来は何の法を得ることができるのでしょうか。実は如来は無所得なのです。須菩提、実に仏に阿耨多羅三藐三菩提を得させる法は一つもありません。一法たりとも得ないことによって、はじめていわゆる阿耨多羅三藐三菩提を得ることができ、はじめて仮に阿耨多羅三藐三菩提を得ると名づけられるのです。

仏は一体何を得たのでしょうか。仏果を得たのでしょうか。いかなる法によって仏果を得たのでしょうか。得るというのは表面的な現象であって、実際には何も得ておらず、得ることもできません。表面的な現象は多くの人が見ることができ、感じることができますが、見たり感じたりしたものは真実ではなく、すべて業縁によって生じたものであり、すべて幻現なのです。得るというのは表面的な現象であり、得ないというのが実質であり、表面的な現象と実質とが結びついたものが、いわゆる仏菩提の果を得るということなのです。如来は一切の法において無所得です。神様は一切万法をもともと具足しており、いかなる一法も貪り求めないので、一切の法を得ることがなく、仏菩提の果をも得ないのです。


——生如法師の開示
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