衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月13日    金曜日     第1開示 合計4647開示

自我を養うことの帰結

一つの問題を考えてみよう。もしあなたが人混みの中で自己を誇示したなら、あるいは人々の称賛を得るか、あるいは称賛を得られないか、あるいは他人の評価や態度を知らないかのどれかだが、自己顕示から何を得られるというのか?

自己を観察する能力や自己管理能力がなく、自律できず、常に他人に監督や規範を求めさせる人を、自覚がない、覚りの力がないという。自己を表現したいがために、他人の評価や感情を顧みず、自分が示すことだけに没頭し、たとえ人に嫌われようとも構わず、自己満足と自己慰めに浸っている。これを利己的という。

なぜこのような現象が起こるのか?衆生は普遍的に「受」を我とし、また普遍的に我に執着するからだ。だから自らの心の感覚を重んじ、様々な受覚に貪着して抜け出せない。たとえ実質的なものを何も得られなくても、心が気持ちよければ、精神的に満足すればそれでいいのだ。受もまた衆生の飲食であり、識食であり、精神の糧である。この精神の糧は、福徳が乏しい時には満たされにくい。福徳が十分に積み重なって初めて、このような識食を必要としなくなり、次第に実際の利益や長期的・究極的な利益を重視するようになる。

衆生は飢えを感じて食事を欲する。これは物質的な飲食である。物質的な享受に貪着する時には、結局のところ実四大種の物質的な色法を得ることができる。例えば餃子を食べる時には、結局餃子が腹に入るので、いくらか現実的である。ただ時間が短く、過ぎてしまえば香りを感じなくなる。身触もまた一種の食であり、やはりいくらか現実的である。例えばマッサージや艾灸などである。これらはすべて粗い食であり、断ちやすい。微細な識食は断ち難く、根深い。ある人々は物質的な享受を与えられなくても受け入れ、耐えることができるが、精神的な肯定や称賛を与えられなければ受け入れられない。精神の糧が満たされなければ、心が我慢できないのである。

識食を乗り越えるにも福徳が必要である。ある人々は常に称賛を受けてきて、あらゆることを経験し、見聞が広く、視野が開けているため、他人の評価や承認の有無を気にしない。心理的な満足感を外部の人事から得るのではなく、外部の事物にも関心を向けない。これは内面に蓄えがあり、自分自身の中に自分を満たす多くのものがあり、精神の糧が豊かだからである。このような人は決して人前で自己を誇示したり、自己顕示したりせず、控えめに振る舞う。

なぜある人々は少し褒め言葉をもらうだけで有頂天になり、天の高さも地の厚さも知らなくなるのか?福が薄く、欠乏しており、失っているものが多すぎるからである。外からこれらのものを得て初めて満たされ、精神が慰められるのである。よく人前でくどくどと話すのが好きな人は、よく味わってみよ。自分に何が欠けているのか?早急に補いなさい。

受を我とするのはまさに我見である。これによって我見が生じ、受覚を追い求め、表現したがり、称賛を好み、批判を嫌う。ゆえにすべての煩悩は我見から生じるのであり、例外はない。ある人々は毎日「我見を断つ」「我見を断つ」と言うが、一体何を断つのか?人は常に物質的な糧と精神的な糧で自分を養い続けると、結果はどうなるか?結果は肥えて屠殺を待つことであり、生死が絶え間なく続くのである。食が集まれば識が集まる。身心世界のいかなる集起も生死の業であり、修行とは集を断つことである。色・受・想・行・識の五陰の集はすべて生死の業であり、その中の行もまた思である。識食の中には思の集まりがあり、あれこれと思い巡らすことも生死の業である。仏法を思惟することは生死の業ではないが、筋道や章法のない思いは、解脱生死には無益である。

水如:人間である以上、誰にでも欠点はある。誇示したいと思ったら、すぐに自分が誇示したと気づく。それは福徳が足りず、他人の承認を得て自分を満たす必要があるからだ。徐々に福徳を積めば、誇示したいという気持ちは減っていく。そうではないか?念が起きるのを恐れるな、気づくのが遅いのを恐れよ。気感が得られて以来、文字を見ればその人が修行しているかどうかがすぐに分かる。仏性や自性について繰り返し議論する内容には反感を覚える。身心の変化こそが最も重要であり、仏性は自分が絶えず前進しながら徐々に体得していくものである。

点评:そうだ、修行には過程が必要だが、過程を長引かせてはならない。誰かに気づかせてもらい、自分で自覚すれば、過程は短くなり、輪廻の苦しみは減るのである。

——生如法師の開示
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