衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月12日    木曜日     第1開示 合計4646開示

瞑想の唯識における意味

神とは何か。神とは七つの識心の精気神、すなわち精神を指す。神を養うとは、七識の精気神を養い、エネルギーを蓄積し、七識が塵境に対応する十分な力と精力を持つようにすることである。目を閉じる行為は眼識と意識という二つの識心によるものであり、色身(物質的身体)は物質的色法であり、目を閉じる機能を持たない。目を閉じる指令は意根が発する。意根が休息すべきと判断し、生気を養う必要があると感じると、色を見ずに目を閉じることを決定する。二識はその決定に従い、目を閉じる。もし意根が色を見たいと望めば、指令を発し、二識は如何なる状況でも目を閉じることができない。なぜなら、それらは意根に必要とされて目的を持って出生した存在であり、必要とされず指令に従いたくないなら、出生する必要がなく、それらには自主性がないからである。

もし意識が「この色は実に良い、もう少し見ておこう」と言い、意根が「ではもう少し見ておこう」と同意すれば、二識は色を見続けて目を閉じない。何事も意根が主人となり決定を下す。意識が提案することもあるが、それも意根が意識の提案に同意し、主人として決定を下すことによる。二識が目を閉じて造作(作為)を止めると、意根は色を見ることに気を遣う必要がなくなり、心を節約して神と精力を養うことができる。あるいは他の重要なことを思惟する余裕が生まれる。

ここで一つは、意根が主人識として決定作用を担うことを示し、もう一つは修定の方法を示している。六識を閉じて造作を止めれば、意根は気を散らさず、心は安定し、禅定は自然に現れる。意根の神が十分に養われれば、自然に智慧が生じる。ある者は「違う、養うのは意識であり、意識が清浄になることで智慧と思惟分別が生じるのだ」と言うかもしれない。この説も当然正しい。七識がすべて外に攀縁せず、安定して神が十分に養われれば、禅定と智慧は自然に現れる。前五識にどのような智慧が現れるのか?眼識は清澈で物を正確に弁別し、耳識は清明で音を明確に弁別し、鼻識は香りを微細に弁別し、舌識は味を細やかに弁別し、身識は感触を鋭敏に弁別し、意識は五識に随って六塵を弁別する智慧を持つ。六識すべてが智慧を持つようになると、識別能力が向上し、意根はより精確な情報を得て、判断がより精確になり、智慧はますます深遠、聡明、敏捷となる。

——生如法師の開示
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