問:私の意識、この『私』とは誰を指すのでしょうか?意識は誰に属するのでしょうか?私の意根、この『私』とは誰を指すのでしょうか?意根は誰に属するのでしょうか?私の五蘊、この『私』とは誰を指すのでしょうか?五蘊は誰に属するのでしょうか?
如春:私の意識、この『私』は意識と意根の両方を指し、意識は第七識と第八識に共有されています。私の意根、この『私』は意根を証得する前には主に意識を指し、意根は無始劫以来第八識と共生共存しており、誰にも属さないと言うべきでしょうか?あるいは、彼自身に属すると言えるでしょうか。私の五蘊、この『私』は意識と意根を指し、五蘊は第七識と第八識に共有されています。
例えば:店の主人(第八識)が七大種子を原料として使い、調味料(因縁)を加え、さらに客の要求(意根の想い)と支払いの金額(業種)に基づいて、五蘊の餃子と意識の餃子と呼ばれるものを作ります。その五蘊餃子と意識餃子は店の主人と客の協力の産物であり、彼らに帰属し、店の主人と客は協力関係にあり、従属関係ではありません。この理解が正しいかどうか分かりませんが、最近この頭は空想を好むようです。
点评:ある人が私の意識と言うとき、この『私』には二つあり、一つは独頭意識、もう一つは意根です。独頭意識の証自証分の機能は自分自身を観察し証明することができ、自我意識があり、意識自身の機能作用を私のものとし、前五識の機能作用も私のものとし、同時に意根の機能作用も私のものとします。もう一つ、意識を私のものとする『私』は意根であり、意根は一切の法を私とし、遍計所執であるため、当然意識の機能作用を私のものとします。
ある人が私の意根と言うとき、この『私』にも二つあり、一つは独頭意識、もう一つは意根自身です。なぜなら、意根には証自証分があり、自分自身を観察し証明することができ、自我感知機能があるため、彼は自分の機能作用を私のものとし、意根を証得したかどうかに関わらず、意根にはそのような執着性があります。総じて言えば、衆生の『私』は意識と意根を含み、意根の『私』がより強く、使用されることが多く、主導的地位を占めます。
この問題は意識や意根や五蘊が客観的に誰に帰属するかを議論するのではなく、誰が主観的にこれらの法を自分自身のものとしているかを言っているのです。問題を読み取ることを学ぶべきであり、自分の空想だけで判断してはいけません。
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