衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2026年03月05日    木曜日     第2開示 合計4639開示

金剛経講解・なぜ法がなく阿耨多羅三藐三菩提を発する者がいないのでしょうか?

究竟無我分第十七原文:なぜならば。須菩提よ。もし菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相があるならば、それは菩薩ではない。なぜかというと。須菩提よ。実に法は存在しない。阿耨多羅三藐三菩提の心を発する者などいないのである。

解釈:なぜこのような心を起こす必要があるのか。須菩提よ、もし菩薩の心に我相・人相・衆生相・寿者相があるならば、まだ四相を破っておらず、実相を証得していないため、その者は真の菩薩ではない。なぜ真の菩薩ではないのか。須菩提よ、この世の中には実際に阿耨多羅三藐三菩提の心を発するという法は存在せず、菩提心を発する者もいないからである。もし人に我相・人相・衆生相・寿者相があるならば、我見が断たれておらず、菩薩でもない。

実相心を証悟した菩薩は四相を破り、初めて真の菩薩となる。我相が実在しないこと、人相が実在しないこと、衆生相が実在しないこと、五蘊に依存する寿者相も実在しないことを証得する。心の中で様々な五蘊の虚妄相を真実と認めなくなり、次第に世俗の五蘊による様々な有為の法相に執着しなくなる。菩薩がこの段階で衆生を救済しようとする時、救うべき衆生がおらず、救われる衆生もおらず、救う私もおらず、発心する私もおらず、私に発心させる法もないことを悟るのである。

なぜ阿耨多羅三藐三菩提を発する法など存在しないのか。この言葉は三つの側面から理解できる。第一の側面は、大菩提心を発することができる菩薩など存在しないという意味である。なぜなら菩薩は五蘊の相として現れ、菩薩の五蘊も虚妄で実在せず、真の菩薩ではないからである。第二の側面は、菩薩が依拠して大菩提を発するような法など存在しないという意味である。菩薩が仏となって衆生の利益と安楽を図る心を起こすには様々な理由がある。衆生の苦しみを見て発心する者もいれば、自らの苦しみから衆生も同様に苦しんでいることを考えて発心する者もいる。また諸仏の無量の功徳を欣慕して発心する者もいる。これらの発心の起因は多様であり、一概には言えない。しかし発心が依拠する内容はすべて虚妄であり、幻の如く実在しない。

第三の側面は、大菩提心を発するという法自体が存在しないという意味である。菩提心を発するという法は、五蘊と世俗の法が結合して生じ、顕現したものである。五蘊が虚妄で実在せず、世俗の法相も虚妄で実在しないならば、この二者に依存して存在する大菩提心を発するという事象もまた虚妄不実であり、生滅する法に過ぎない。

菩薩が衆生を救済する心を起こす時、どのような心構えで臨むべきか。菩薩は衆生を救う際、三轮体空を実践し、四相を離れ、我も人も衆生も寿者もない空の心で救済に当たらなければならない。なぜなら我相は空であり、真実の私が衆生を救うことはありえない。人相と衆生相も空であり、救われる衆生など存在しない。したがって私が衆生を救うという事象自体が空であり、実在しないのである。もし菩薩が「私が衆生を救った」「衆生が私によって教化された」と執着するならば、無我を証得しておらず、心が空になっていないため、真の菩薩ではない。衆生は空であるのに、どうして救われようか。私は空であるのに、どうして救うことができようか。それゆえ菩薩が一切の衆生を滅度しても、実際の理の上では一人の衆生も救われてはいないのである。

菩提心を発する者は空であり、菩提心を発するという事象も空であり、幻の如きものである。事相としては存在するが理の上では存在せず、存在するのは仮の存在に過ぎない。しかしこの幻の事象によって修行を積めば仏となることができる。仏となるという事象もまた空であり、幻の如きものである。実際の理の上では成るべき仏もなく、得るべき凡夫もない。一切は夢幻泡影の如く、虚無縹緲として真実でもなければ虚偽でもなく、真実でもあり虚偽でもある。真実と虚妄、実と虚を捉えようとする必要はない。事相としては行い、心は空でなければならない。菩薩は衆生を救う際に三轮体空を実践するだけでなく、布施などの六波羅蜜を含むあらゆる修行においても三轮体空を貫き、徹底的に空に徹して初めて究竟の境地に至るのである。

——生如法師の開示
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