能浄業障分第十六原文:须菩提。我念过去无量阿僧祗劫。于然灯佛前。得值八百四千万亿那由他诸佛。悉皆供养承事。无空过者。若复有人。于后末世。能受持读诵此经。所得功德。于我所供养诸佛功德。百分不及一。千万亿分乃至算数譬喻。所不能及。
解釈:須菩提よ、私は過去世を思い起こす。無量の阿僧祇劫のあいだ、燃灯仏に出会う以前に、無量の諸仏世尊に値遇し、これほど多くの諸仏世尊に対して、私はみな自ら飲食・衣被・臥具・医薬の四事をもって供養し、さらに一仏一仏に仕えて、諸仏のすべてのお命じに従った。一仏一仏が世に出現したとき、私は一つも空しく過ごすことなく、すべて値遇することができた。
もしまた、仏法がまもなく滅びる後の末世において、この金剛経を受持し読誦できる者がいるならば、その人が得ることのできる功徳は、私が無量世のあいだに無量の諸仏を供養した功徳よりも、さらに多いであろう。私が無量の諸仏を供養した功徳は、この人が金剛経を受持し読誦する功徳の百分の一にも及ばず、まして千万億分の一にも及ばない。あらゆる数をもって譬喩し形容しても、形容しきれず、また譬喩することもできない。言葉に言い表せないのである。金剛経を受持し読誦する功徳には、譬喩するものがなく、功徳はきわめて大きく、成仏に至るまで続くのである。
なぜなら、金剛経の指し示すところは、すべて純粋な無為法であり、この無為法を修学し円満させれば、仏道が円満し、速やかに成仏するからである。それゆえ、金剛経を受持する功徳は、いうまでもなく比類なく広大であり、いかなる有為法の功徳も、これと比べることができない。これは世尊が自ら、燃灯仏に出会う以前のことを述べたものであり、また八地菩薩に修証する以前のことでもある。当時の世尊の心は、まだ真の純無為に達しておらず、なお有為有漏の行を行じており、世俗の法をもって諸仏を供養することは、みな着相の供養、有漏の供養であった。それゆえ、一仏一仏も釈迦菩薩に成仏の授記を与えなかった。釈迦菩薩の心行が純無為に達し、八地の不動地の果位に修めたとき、燃灯仏に出会って、はじめて燃灯仏は釈迦菩薩に成仏の授記を与えたのであり、このとき世尊はすでに無量の諸仏に値遇していたのである。
八百四千万億というのは、インドの言葉であり、漢語では四千八百万億となるべきもので、数量がきわめて多く、数えきれない数を表している。私たちは知るべきである。仏道を修行する過程において、必ず無量の諸仏に値遇し供養することになる。四事の供養だけでなく、さらに諸仏に親しく仕えなければならず、最も重要で、最も鍵となるのは、やはり法の供養を行じ、法の供養を最上とすることである。いわゆる法の供養とは、自ら諸仏に従ってさまざまな仏法を修学し、さらに広く衆生を教導してともに仏法を修学させ、仏に代わって仏の法教を宣揚することである。もし仏が教導されたとおりに修行し、しだいに仏法の無為の宗旨に相応し、心地が純無為に達するならば、これこそ真の諸仏への供養であり、必ず諸仏の授記を得ることになる。
原文:须菩提。若善男子善女人。于后末世。有受持读诵此经。所得功德。我若具说者。或有人闻。心则狂乱。狐疑不信。须菩提。当知是经义。不可思议。果报亦不可思议。
解釈:須菩提よ、もし善男子・善女人が、仏法がまもなく滅びる末法の世において、この金剛経を受持し読誦することができるならば、その人が得る功徳は、きわめて多く、またきわめて多いものである。もし私が具体的にそれを説くならば、すなわちこの人が得た功徳がどのようなものであるか、いったいどれほどあるのか、具体的にどのようなものがあるのかを説くと、それを聞く人がいると、心は狂乱し、疑いに満ちて信じることができなくなるであろう。須菩提よ、ここから私たちは知るべきである。この金剛経に含蔵されている甚深の法義は、いかに不可思議で、深妙で測りがたいものであるか。それならば、この金剛経を受持する果報もまた不可思議なのである。
これは、金剛経を受持する功徳があまりにも殊勝であって、一般の人には想像も信じることもできない、ということを示している。金剛経の中の義理にしたがって修学し、般若の実相心を証悟すれば、それ以後、福德と智慧はしだいに増長し広がり、智慧はますます深妙にして比類なく、福德と智慧がともに円満具足したときには、三界の世間における無上士、無上尊となる。この果報はまことに不可思議であり、思議することもできない。この果報と功徳は、何劫かかって語り尽くすことも、讃え尽くすこともできないのである。
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