常住:第六識の使用については、やはり程々に留めるのが最善である。第六識によって生じる正念は確かに末那識(意根)に対して熏習作用を持つが、この作用は所詮限定的であり、末那識の無明を断ち切るには最終的に末那識自身の観察と覚醒に依らねばならない。長時間にわたり第六識を使用すると、たとえ正しい知見を引き起こす場合でも、末那識の怠惰性、依存性、固着性を増長させる。第六識は盲導犬に喩えられ、末那識はその盲人である。盲人が常に盲導犬に依存すれば、たとえ正しい道を歩んでいても、盲人は依然として盲目であり、盲導犬がいなくなった途端、盲人は必ず深淵に落ちるであろう。
したがって、第六識による末那識への熏習が、ある法義(例えば五蘊は我ならず)に対して興味や疑問を持つ段階に達したならば、末那識にその課題を参究させるべきである。この時、第六識は一旦手放してよい。つまり盲導犬を休ませるのである。盲人自らが目を見開く方法を考えねばならない。これには禅定の力が必要であり、定中で末那識が参究し確信を得ることは、あたかも盲人が突然目を見開いて光明を取り戻すことに喩えられる。もしそうなれば、盲人が再び盲導犬を必要とするだろうか? これはまさに宗門の大徳が説く「識(盲導犬)を捨てて根(光明を取り戻した目)を用いる」ことではないのか?
現在の問題は、多くの人々が第六識を用いて仏法の理論的知識を学ぶこと、すなわち盲導犬の道案内能力を絶えず訓練することばかりを好むが、末那識という盲人の目は常に盲目のままである。したがって、第六識が仏法の理論的知識をある程度学んだならば、それ以上広範に学ぶべきではなく、程々に留めるべきである。この時点で第六識は末那識を導いて参究させる方向に向かわせねばならず、これこそが真の実修実証である。ある角度から言えば、現在、誰がより多くの仏法理論的知識を学び、誰がより雄弁に語れるかは、実のところ単に誰の盲導犬がより賢いかというに過ぎず、盲人自身にとってはますます盲目となり、盲導犬の助力にますます依存する結果にしかならない。
評釈:この長文は、基本的に末那識(意根)と意識が仏法修学において果たす関係を明らかに説き、仏法修証の根本問題をはっきりと示している。末那識を盲人に、意識を盲導犬に喩える比喩は的確であり、両者の関係を極めて明確にしている。したがって修行の根本と重心は末那識にあり、意識は補助的な役割を果たす。主人(末那識)が自発的・自律的に修証を行うのを助けることが意識の職責であり、意識の助力の下で独立自主を実現してこそ、末那識は本物の成功を収めることができる。
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