衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年02月28日    土曜日     第2開示 合計4630開示

意根と意識の修証における関係

常駐について:第六意識の使用は、やはりほどほどに留めるのが最善である。第六意識から生じる正念は確かに意根に対して薫習の作用を持つが、この作用は結局のところ限られたものであり、意根の無明を断ち切るには最終的に意根自身の観察と覚醒に頼らざるを得ない。長時間第六意識を使用すると、たとえそれが発起するのが正知正見であっても、意根の怠惰性、依存性、堅固性を増大させてしまう。第六意識は盲導犬のようなものであり、意根はその盲人である。盲人が盲導犬ばかり使用していれば、たとえ正しい道を歩んでいても、盲人は結局のところ盲人のままであり、ひとたび盲導犬がいなくなれば、盲人は必ず深淵に落ちることになる。

だから、第六意識による意根への薫習が、意根に或る法義(たとえば五蘊非我)に対する興味や疑問を持たせるに至ったときには、意根にこの課題を参究させなければならない。このとき、第六意識はひとまず放懐してよい、つまり盲導犬はひと休みしてよいということである。盲人はなんとかして自ら両目を開かねばならず、これには禅定の力が必要である。定の中で意根がひとたび参究し尽くして疑いなく確認できれば、それはまるで盲人が一瞬にして両目を開き、光明を取り戻すようなものである。もしそうであれば、盲人はまだ盲導犬を必要とするだろうか?これはまさに宗門の大徳が言う捨識(盲導犬)用根(光明を取り戻した両目)ではないのか?

今の問題は、多くの人が第六意識を使って仏法の理論知識を学ぶことばかり好み、つまりあの盲導犬の道案内の能力をひたすら訓練し続けているが、意根という盲人の目は終始盲のままであるということである。だから、第六意識がいくらか仏法の理論知識を学んだ後は、それ以上広範囲に学ぶのではなく、ほどほどに留めるべきであり、このとき第六意識は意根を導いて参究させなければならない。これこそが真の実修実証である。ある角度から言えば、現在、誰がより多く仏法の理論知識を学び、誰がより饒舌に語れるかは、実は誰の盲導犬がより賢いだけの話であり、盲人自身にとっては、ますます盲が深くなり、ますます盲導犬の助けに依存するだけである。

講評:この大きな段落の内容は、意根と意識の仏法学修における関係をはっきりと明らかにしており、仏法修証の根本問題をもはっきりと説き明かしている。意根を盲人に、意識を盲導犬に譬えており、その譬えは的確で、両者の関係はこれ以上ないほど明確になっている。すなわち、修行の根本と重心はいずれも意根のここにあり、意識は補助の役割を果たすものであり、主人が自発的に修と証を行うのを助けることが意識の職責であり、意識の助けのもとで自立自主することによって、はじめて意根は功成名遂することができるのである。

——生如法師の開示
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独頭意識でなければ念頭を持つことはできない

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