衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年02月24日    火曜日     第1開示 合計4621開示

一個人の生存の高さを決定するのは何か?

俗世の中で生きていくにあたり、ハイテクと高い品性のどちらか一方を選ぶとしたら、皆さんはどちらを選ぶでしょうか。どちらが人の生存の質を決めるのでしょうか。あるいはハイテクを高学歴・高文化・高素質に置き換えたり、高い権位・大きな富貴・大きな勢力に置き換えたりしてみましょう。高い品質とは完全に色身の受用や物質的な享受を指すのではなく、主に心の受用、そして現在と未来の果報を指します。六道輪回においては、天道は人道より生存の質が高く、人道は三悪道より生存の質が高く、六道輪回を超越した聖者は凡夫の衆生より品質が高いのです。

私が以上の問題を提起したのは、ここ最近および少し前の期間に、小学校・中学校の教師が極めて師徳を欠いており、さらには大学の教師にも師表がなく、さらには一部の大学生・大学院生・博士生・留学生の品行も非常に悪く、性別や年齢を問わないのを見たからです。こうした人々を見ると、今の教育環境が極めて悪いこと、教育の目標が徳ではなく、知識・卒業証書・学歴・経歴であり、外在を重んじ内在を重んじなくなっていることが分かります。教師があのような状態で、学生を品学兼優(人柄も学業も優れている)に教育できるでしょうか。学は優れることができても、品は優れることができません。教育はますます心の品質を重視しなくなり、心の向上に関する教育がなく、さらには学問さえも見せかけの飾り、世間のさまざまな資源を獲得するためのものになっています。国外の教育は良いのでしょうか。それも良くなく、同様に心の教育がなく、人の品徳・品質を重視していません。

仏教界は良いのでしょうか。同様に良くありません。仏教の中の出家者・在家者はいずれも世俗界から来ており、しかも世俗界から離れることができず、古い染汚は取り除けず、新しい染汚は遮断できません。仏教の教育者自身の煩悩すら解決できないのに、とりわけ在家者は世俗心や私欲の心が重く、どうやって随学者を立派に教育できるでしょうか。このままでは、人類にまだ何の希望があるでしょうか。各方面の資料やデータによれば、人類は下り坂を歩んでおり、ある程度まで進むと滑り落ちて、三悪道へ滑り落ちてしまいます。人間の世界には多くの人は残せず、人数はますます減っていくのです。

現代の文化知識は人をプラスのエネルギーで満たすことができず、人類の思想品徳を高めることができず、心を昇華させることができません。仏教の中の知識や理論も同様に、学仏人の個人的な修養や素質を高めることはなく、一部の素質が高く覚悟のある人を除きます。では、素質が低く修為もなく徳のない人の生存の質が良いはずがあるでしょうか。良いか悪いかは、ここ数年の世界の大環境を見れば分かります。さまざまな災難、天災人禍が頻発し、小規模な戦争が絶えず、大規模な戦争も起きないとは保証できません。人心はますます利己的になり、しかも皆短視眼的で、目の前の一寸四方のことしか顧みず、長期的な計画はできず、まして後世のことなど考えることはできません。世界全体の情勢とその行方から見ると、人類の前途は非常に楽観できません。

では、もう少し長い時間軸から見て、三世の因果から見て、人類の運命を左右するのは文化知識や理論、ハイテクでしょうか、それとも人類自身の品徳・修養・修為でしょうか。因果は何によって決まるのでしょうか。世俗の大衆が認識する文化知識、地位・権勢、富など、人間の身分を代表するようなものによって決まるのでしょうか、それとも人間の思想品徳、具体的で実際的な身口意行によって決まるのでしょうか。もし前者なら、古今のすべての成功者、大名声・大富貴の人々は、今どこにいるのでしょうか。六道の中を探してみてください。どの道にいるのでしょうか。人身を得た者は何人いるでしょうか。天に上がった者は何人いるでしょうか。三悪道にいる者はどれほどいるのでしょうか。なぜ過去の皇帝や貴族たちは死後に三悪道に落ちたのに、今報じられている社会の底辺の農民や普通の人々の中には、直接ふたたび人として生まれ変わった者がいるのでしょうか。このような因果は何によって決まるのでしょうか。

私はかつてある弟子にこう言いました。子供の教育については、文化知識はそれなりで十分であり、人と張り合う必要はなく、高い金を払って生死輪回に益のない知識や、自分の品行に関係のない理論を学ぶのはやめなさいと。それらのものは生死の趣向を決めることができず、かえって生死の業を増やすかもしれません。人はもっと実在的であるべきです。実在的とは何でしょうか。生死という大事に関係するものこそが最も実在的なものであり、その他はその日暮らしでよく、どれも重要ではありません。どんな前途も、どんな富貴も、どんな人に一歩勝ることも、必要ありません。高く遠くを見渡し、大きな志を胸に抱き、世人の波に流され世俗の流れに随わず、俗を脱してこそ良い未来があるのです。

私は中学に入ってから学習において実用性を考えるようになり、いつもこの科目を学んで何の役に立つのか、あの科目を学んで何の役に立つのかと考え、役に立たないと感じたものは適当に済ませ、真剣に学ばず、とりわけ暗記の必要な文科系の科目は、たいてい学びませんでした。高校時代は教師の態度を見て学び、態度が良ければ私は真剣に丁寧に学び、態度が悪ければ適当に済ませ、機嫌が良い時は成績で一位を取り、機嫌が悪ければ中の上くらいをふらふらとさまよい、教師は私に何も言えませんでした。大学時代には、私はすべての科目を一つずつ評価し、九割の授業が役に立たないことを発見したので、課外の本を読むようになり、邪魔が入るときは学校の図書館へ行って読書し、読むものがないと分かると市の図書館へ行って読書しました。毎日教室へ様子を見に行き、授業の前に立ち去り、授業が終わってから自分で教室に戻って本を読み、試験はすべて土壇場で慌てて勉強する臨陣磨槍でしたが、不合格は一つもなく、追試も不要で、こうしてごまかしごまかしで学生時代を終えました。

人として生きるなら、もっと実在的になりましょう。実在的なものはすべて俗を脱しており、俗っぽいものはどれも実在的ではありません。実のないものは長く存在できず、いつ消え去って跡形もなくなるか分からず、追いかけてもどこへ追えばよいのかさえ分かりません。

心は万物の主であり、四時とともに凋まず。世間法においては心行を重んじなければ良い果報は得られず、出世間法においてはなおさらそうです。学仏の修行とはすなわち修心であり、その目標は心行を変えることであり、心はすべての修行の標的です。もし心行や心性を重んじず、ただ理論知識の钻研に励み、術を弄ぶだけなら、これは本を捨てて末を追う行為です。かなり多くの人がただひたすら本を読み、研究し、考えをめぐらし、憶測するだけで、心性の問題にはまったく構わず、三十七道品を修めず、菩薩の六度を行ぜず、菩提心を発せず、ただ果だけを求め、果が何というものか、果がどこから来るのか、果が何を代表しているのかを知らず、功利心が重く、近道をしようとして、結局は最大の回り道をすることになります。心が根本であり、近道とはすなわち修心であり、心が良ければすべてが良く、心が良くなければすべてが良くありません。知識や理論、さまざまな術は、もし心と関係がなければ、術は単なる術にすぎず、果はありません。

果とは何でしょうか。実はそもそも果などなく、いわゆる果とは、心の純正の程度・清浄の程度に言葉を与えて表現し説明したものです。心が清浄・純正でなければ、果という語で表現することはできません。果は心の清浄な状態を表しており、心が清浄でなければ、術を用いて果を得ることはできません。

数か月前、私は八正道についてもう少し細かく講じたいと思いました。何が正なのか、どの面でどの程度の正に達すれば八正道を修め満足したと言えるのか、証果の条件が具足し、はじめて我見を断てるのかを細かく論じたいと思いました。しかし今に至るまで、講じる時間を捻出できていません。七覚分・八正道・三十七道品の修行を重んじる人は多くありません。これらこそが修心であり、見道の条件なのです。今の人々は短視眼的で、無知で功利的に結果だけを目指し、過程や前提条件を顧みません。これでどんな果が得られるのでしょうか。生死輪回の果、三悪道の果、それ以外には何もありません。

大多数の学仏人は菩提心を発することができず、願力も願行もなく、仏教のことは顧みず、衆生のことは構わず、両眼を閉じて自分のあのわずかなことだけを顧み、非常に利己的で、得ることばかり考えて出すことを考えず、まして報いることを考えません。上には四重の恩に報いるべきですが、こうしたことは自分には関係なく、他人が自分に与えてくれた恩徳は、どれも当然やるべきことをやっただけのもので、自分のことでさえ手一杯なのだから、どんな恩であろうと構わないと、四重の恩を心安らかに負い続け、少しも罪悪感がありません。自分に恩の重い三宝の団体に対して、わずかの報いも奉仕もせず、滴水の恩には湧泉をもって報いるべきなのに、自分は湧泉の恩を受けながら滴水をもって報いることを望みません。このような恩義を知らない人は、どれほど多くの法を学ぼうと、どれほど多くの知識を得ようと、わずかでも実際の利益はなく、どう死ぬべきかはそのように死に、どう輪回すべきかはそのように輪回するのです。

——生如法師の開示
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衆生は皆、画地為牢の者である

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