衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年02月23日    月曜日     第1開示 合計4619開示

世の中の規則と法則はなぜ限界性があるのか?

水如が問う:ある問題は自分で長い間考え抜いて得た結論であり、意根から導き出した答えは相互に通じるものだと思う。しかし他人に尋ねられて説明すると、定義に合わないと言われる。実際、定義は時に大雑把で実践不可能な場合がある。なぜなら定義した者自身が理解していないからだ。なぜ自分が有用だと感じ、理論とも整合する内容を、他人は軽視するのか? あるいは異なるレベルの者同士はなぜ意思疎通が難しいのか?

答:君のこの疑問は娑婆世界に普遍的な問題だ。この疑問が生じるのは、君あるいは全ての者が、過去の固定的な結論や定義を絶対的に正しい基準と見なし、世の中のあらゆる認識理論を不変の法則としているからだ。実際はそうではない。娑婆世界のあらゆる法則・基準・理論認識は、ほとんどが誤っている。正しく見えるものでさえ、一時的・相対的・小範囲のものであり、絶対不変の真実ではない。だから修行を重ね智慧が増すにつれ認識は変わり、世間の法則や真理を見抜き、それを超越すれば、矛盾が生じるのだ。

仏法において、娑婆世界の過去の教え(仏説ではない部分)は完全に絶対正しいわけではない。説法者が絶対真理を把握せず、全ての教えを実践していないため、その智慧には限界があり、教えは円満でなく誤りが避けられない。例えば意根の心所法について、現代心理学は実際の現量レベルで旧来の認識理論を突破し、意根心所法がかつての唯識論師たちが説いたような「ごく少数の心所法のみで、意根はほとんど無為」ではないことを示した。

実際はそうではない。意根は非常に活動的で、至る所にその働きがある。意根のないところには六塵も六識も存在しない。では意根が活動し種々の心行が生じるなら、心所法を伴わないはずがあろうか? 意根の活動は心所法によらないのか? これは全く道理が通らない。古代の唯識師がなぜそのように意根心所法を設定したのか? 原因は彼らの認識が限られており、実践経験が不足し、理論を実践に結びつけられなかったことにある。

世間の種々の法則・基準は、なおさら検証に耐えられない。あらゆる国家の法律・規制制度は人為的に設定されたものであり、人間がこれほど愚痴で智慧がないのに、どうして円満に設定できようか? 人為的に設定されたものは全て円満ではなく、最終的には変異し消滅する。衆生のあらゆる習慣・習俗も同様に愚痴無智であり、絶対真理とは見なせない。全てが変異し改変される。時代によって変わり、どこに真実があろうか? だから人界は舞台であり、芝居小屋なのだ。皆がその中で芝居を演じており、あらゆる基準・法則・制度・規定を真に受けてはならない。過ぎ去れば消え変わり、変異後のものも同様に真理ではない。戯れとしておけばよい。

人類の言語文字もまた戯れの一部であり、真に受けるべきではない。変異無常である。このゲームルールも同様に人為的に設定されたものであり、人が変わればルールも変わるべきだ。さもなければ矛盾が生じる。人為的に設定されたルールを、なぜ無条件に完全に従う必要があろうか? 例えば句読点、文字の字形、字義、文の構成など、全て人為的に設定され、人に従って変異する。どう設定しようと自由なのだ。ならばなぜ一つのゲームや設定、算法に執着する必要があろうか?

言語文字は何のためか? 意思表示と交流のためだ。意を正確に伝え、交流の目的が達成されるなら、なぜ多くの規則に固執する必要があろうか? 無意味な修飾語を多用する必要があろうか? だから真の人間・真性の持ち主は、規則や型に従わない者であり、完全にこれらの規則やパターンを無視できる。いかなるゲームルールも真性の者を縛るべきではない。真の人間は世俗の常識に従わない。さもなければ流される俗人であり、真人ではない。常理・常規を打ち破るのが智者であり、凡庸な者こそ規則に従う。

私は静かな寂然たる身を持ち、無為である。しかし同時に狂おしい心も持ち、一切の既定法則を打ち破り、固有の習俗に囚われ囲い込まれることを拒む。一切の法則は私の心中にも眼中にもなく、時にただ口に出すだけである。このような私を世間は容れるか? 決して容れない。仲間はいるか? 決していない。寂しいか? 勿論寂しい。いつも死にたくなる。何も変えられず、ただ自分の命だけが変えられるからだ。しかし責任はそこにあり、放棄できない。仕方なく生きているだけで、興味はない。

君若蘭:はい師父。以前、仏法を学ぶ人に何人か出会いましたが、私が心理学を学んだと聞くと、大抵「心理学は不徹底で浅く、第七識に触れられない」と言われました。心理学の限界はもちろん承知しています。学びの浅いカウンセラー達が確かに意識レベルで留まっていることも知っています。しかし少数の深く学んだ心理カウンセラー達は、第七識に関して大量の実践研究を行い、多くの普通に仏法を学ぶ者よりも深く悟っていることさえあります。

しかし、心理学の主要理論内容には確かに独自の限界があります。深く進んだカウンセラー達がもし唯識を学べば、彼らの多くの迷いは解け、視野と限界はさらに広がるでしょう。残念ながら彼らの多くは仏法を学ばない。これが弟子がこれから進むべき道です。近頃師父と何度かお話しして、私は大きな収穫を得たと感じています。


——生如法師の開示
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