衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年02月21日    土曜日     第1開示 合計4617開示

修行者は世の過ちを見るべきか否か?

この世にはもともと数多くの過患が存在しています。なぜなら、人間には様々な煩悩があり、避けがたい悪行が多く、数多くの悪業を造り、世の中に多くの苦しみ、矛盾、環境悪化をもたらすからです。これらの過患をありのままに見るには智慧と大いなる智慧が必要であり、これらの過患を見て回避し改善するには、さらに大いなる智慧が必要です。己の過ちを見るだけでなく他人の過ちも見ることができ、自分を改めるだけでなく他人や生存環境をも改めることができるのは、大菩薩でなければ成しえません。

過ちを知って初めて改める心が生まれ、改めた後に初めて完全かつ尽善尽美になります。私は幼い頃から常に人の過ちを見てきました。すべての人に過ちがあるのを見ずにはいられませんでした。人の過ちや世の過ちを見ながらも何も変えられないのは、非常に苦しく無念なことでした。当時はいつも目を閉じて人々から離れ、人の過ちを見ずに済むようにしたいと思っていました。だからこそ、人の過ちを見られる人は少なくとも他人を超越していなければなりません。例えば生徒の親や教師は、一般的に生徒より見識があり、生徒を監督指導する役割を果たしています。生徒に過ちがあれば必ず見抜き、改めるよう命じなければなりません。同級生同士でも互いに監督し合い、長所を取り入れ短所を補い、共に進歩することができます。

これらの過ちある人々とどう接するか、過ちある人々をどう導いて改めさせるか、これらの不完全な事柄をどう処理するか、これらは大いなる智慧であり、同時に一個人の人格と教養を体現します。人事の過患が見えず、平々凡々と調停役を務めるだけで何が解決できるでしょうか。人の過ちを見た後、自分を修める際には、相にあって相に離れなければなりません。この両者には大いなる智慧が必要です。

世俗諦の理では世の過ちを見る必要がありますが、出世間の勝義諦の理では世の過ちを見ません。世の過ちを見るのは世俗諦の智慧であり、世の過ちを見ないのは勝義諦の智慧です。この二つが完璧に融合して初めて真の智慧となります。そしてこの二つを円融させられる存在こそが、諸仏菩薩なのです。

世俗法ははっきりと明らかであり、善悪是非は心中で明瞭です。すべきことはしっかり行い、決して曖昧にしてはいけません。同時に心では、これらすべてが虚妄で幻化したものであり、空であり、如来蔵が現じた仮の相であることを明らかにし、つまりこれらの相に執着しないことです。相に執着しなくとも、相は相として宛然と存在しています。


——生如法師の開示
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