衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年02月13日    金曜日     第1開示 合計4609開示

金剛経講解・持経功徳分第十五

この章の内容は、経典を持つ功徳が非常に広大であり、無量無辺の多さがあることを論じています。なぜこれほど多くの功徳があるのでしょうか。それについては、経典を持つとはどういう意味かを考察する必要があります。「持つ」とは、前文で述べたように受持の意味であり、主に依止と行持の意味も含みます。行者は金剛経を読誦することにより、金剛経の中の法義に依って金剛般若の実相心を証悟し、それによって真に実相心である如来蔵の有為と無為の清浄なる体性を領受し、観察し、体得することができます。如来蔵の清浄なる体性に依止して、自身の身・口・意の行いを薫修し変化させ、染汚を断ち清浄に還り、無明を取り除くことができるのです。この基礎の上に立って、さらに広く縁ある衆生のために広く宣説し、諸々の縁ある者を度し、ともに菩提の大道に入り、ともに毘盧性海に入らしめます。ここから自利利他の成仏の道を歩み始め、福徳と智慧の資糧の二つが円満に具足した後には、無上の大菩提を円満に成就し、人天が注目する両足尊となります。

したがって、経典を持つ功徳は確かに無量無辺に広大であり、それによって持つべき経典が何であるかも明らかです。「経」とは、表面上は金剛経を指しますが、実際には金剛経が指し示す甚深な義趣――実相心である如来蔵であり、この如来蔵によって経典全体を貫き、経典全体の縦糸と横糸、主軸となり、修行の始めから終わりまで貫かれています。この経典の如来蔵は成仏の真体であるため、この経典を読誦し証悟することは、今後仏道を修学する基礎と入門となります。入門した後は、この経典に依って薫修することが、入門後の実修となります。次第に如来蔵への転依が成就した後、七識の妄心と如来蔵の真体はともに無量の功徳を具え、功徳が円満すれば、大乗の修学およびすべての仏道の修学は完了し、無上菩提は成就し、自利利他の行いは円満となります。以上から、経典を持つ功徳が真に無量無辺に広大で、不可思議であることがわかります。

原文:須菩提よ。もし善男子・善女人ありて、初日分に恒河沙等の身をもって布施し、中日分にもまた恒河沙等の身をもって布施し、後日分にも恒河沙等の身をもって布施し、このように無量百千万億劫の間、身をもって布施せん。

釈:須菩提よ、もし善男子・善女人が一日のうち、太陽が昇り始める午前の時間に、自身のガンジス川の砂の数ほどの色身をもって衆生に布施し、太陽が中天に達する正午の時間に、自身のガンジス川の砂の数ほどの色身をもって衆生に布施し、太陽が沈みかける午後の時間に、自身のガンジス川の砂の数ほどの色身をもって衆生に布施する。このように、自身の百千万億劫にわたる生命の時の中で、毎日これほど多くの色身をもって衆生に布施するのである。

ここで仏は、衆生がこれほど多くの色身を持ち得るという仮定を述べていますが、実際にガンジス川の砂の数ほどの色身を持ち得る者は、等覚菩薩・妙覚菩薩および諸仏のみです。普通の衆生は如来蔵を証悟しておらず、四禅八定を修得していないため、意生身も分身も持ちません。したがって自身の色身を布施することは非常に困難であり、色身以外の所有物を布施するのも惜しむほどです。布施は外財布施と内財布施に分かれます。外財布施とは、色身以外の、色身に属する金銭や財物などを布施することです。内財布施とは、特に色身を布施し、衆生の空腹を満たし、衆生の飢えの苦しみを取り除くことです。

外財は依報に属し、色身という内財に依って存在するもので、本来無常で変化するものです。しかし一般の衆生は、身外の物でさえ布施しようとせず、非常に吝嗇です。ましてや内財を布施することは、死んでも捨てられないほどです。なぜなら色身がなければ全てを失うため、色身は身外のあらゆる物よりも貴重だからです。外財布施ができるだけでも既に難しく貴いことであり、その福徳も広大で無量無辺、言い表せないほどです。もし内財布施ができ、色身を布施できるということは、生死を捨て忘れ、身心を惜しまず、四大を皆空とすることを意味し、その福徳はさらに無量無辺、不可思議となります。


——生如法師の開示
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