この章の内容は、経を持つ(持経)功徳が非常に広大で、無量無辺にも及ぶことを論述しています。なぜこれほど多くの功徳があるのでしょうか。それは、持経がどのような意味なのかを見なければなりません。持とは、前文で述べたように受持の意味であり、さらに依止・行持という意味もあります。行者は金剛経を読誦することによって、金剛経の中の法義に依拠して金剛般若の実相心を証悟し、それによって実相心如来蔵の有為と無為の清浄な体性を真に領受し、観察し、体悟することができ、如来蔵の清浄な体性に依止して、自らの身口意行を薫修し変えて、染を断ち浄に還り、無明を取り除くことができます。この基礎の上に、さらに広大な縁ある衆生のために広く宣説し、諸々の縁ある者を度して、ともに菩提の大道に入り、ともに毘盧性海に入ります。ここから自利利他の成仏の道を歩み始め、福徳と智慧の資粮の二者が円満具足した後には、無上大菩提を円満に成就し、人天の注目を集める両足尊となるのです。
したがって、持経の功徳は確かに無量無辺の広大なものであり、それでは持つ経とは何であるのかも、おのずと明らかです。経とは、表面上は金剛経を指しますが、実際には金剛経の指し示す甚深の義趣――実相心如来蔵であり、この如来蔵をもって経全体を貫き、経全体の経緯線と主軸となり、修行の終始を貫くのです。この経たる如来蔵は成仏の真体であるため、この経を読誦し証悟することは、今後の仏道修学の基礎と入門であり、入門した後、この経に依って薫修することこそ、入門後の実修なのです。次第に如来蔵への転依成功(āśraya-parāvṛtti)を成し遂げた後には、七識の妄心と如来蔵の真体とがともに無量の功徳を具え、功徳円満して、大乗の修学およびすべての仏道の修学は終わり、無上菩提はすでに成り、自利利他の行は円満します。このように見れば、持経の功徳はまさに無量無辺の広大なものであり、思議すべからざるものです。
原文:须菩提。若有善男子。善女人。初日分。以恒河沙等身布施。中日分。复以恒河沙等身布施。后日分。亦以恒河沙等身布施。如是无量百千万亿劫。以身布施。
解釈:須菩提よ、もし善男子・善女人が、一日のうち、太陽が昇ったばかりの午前の時に、自らの恒河沙数にも及ぶ色身をもって衆生に布施し、日が中天に至る正午の時に、自らの恒河沙数にも及ぶ色身をもって衆生に布施し、太陽が沈もうとする午後の時に、自らの恒河沙数にも及ぶ色身をもって衆生に布施するとします。このように、自らの百千万億劫の命の時間のうち、毎日これほど多くの色身をもって衆生に布施するのです。
ここで仏は、衆生がこれほど多くの色身を持つことができると仮定しておられますが、実際に恒河沙数もの色身を持つことができる者は、等覚菩薩・妙覚菩薩と諸仏だけであります。普通の衆生は、如来蔵を証悟しておらず、四禅八定を修めていないので、意生身を持つことも、分身を持つこともできません。したがって、自らの色身を布施することは非常に困難であり、たとえ色身以外の所有物を布施するにしても、惜しんで手放せないものです。布施は外財布施と内財布施に分けられます。外財布施とは、色身以外の、色身に属する金銭・財物などを布施することです。内財布施とは、専ら色身を布施し、衆生の飢えを満たして腹を満たさせ、衆生の飢餓の苦しみを免れさせることです。
外財は依報に属し、色身という内財に依って存在するものであり、もともと無常で変転するものです。しかし一般の衆生は、身外の物を布施することさえ肯んじず、非常にけちで、まして内財を布施することとなれば、なおさら死んでも手放そうとしません。色身がなければすべてがなくなるのであり、色身は身外のすべての物よりも貴重に見えるからです。外財布施ができるだけでもすでに得難く貴重なことであり、その福徳も非常に広大で、無量無辺で説くべからざるものです。もし内財布施、すなわち色身の布施ができるならば、それは捨生忘死を意味し、身心を惜しまず、四大皆空の境地であり、その福徳はさらに無量無辺で、思議すべからざるものです。
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