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日常法話

2026年02月14日    土曜日     第1開示 合計4610開示

電を実証したとはどのようなことか?

実証で電気に触れるとは、五根の一つと意根が共に電気に触れ、電気を了別し、電気を明瞭に了知することである。了別とは現量の清清楚楚とした分別と感知であり、明瞭とは現量の知にして疑惑なきこと、断疑である。断疑・無疑惑の内包について、まだ分からない人が多いので、後日また改めて具体的に説明する帖子を書かねばならない。さもないと、またある人々が自分はもう断疑した、もう疑問はないと言い出すからだ。現量と現前という二つの言葉の内包も、もっと具体的に詳しく説明し、例を挙げて説明しなければならない。さもないと、ある人々はやはり分からず、すぐに自分は現量だの現前だのと言って自分はどうこうだと主張するからだ。それぞれの概念・言葉の内包を具体的に説明し尽くしても、ある人々は自分の利益に関わるとやはり屁理屈をこねて、自分がどれほど優れていてどれほど正しいかと言い張る。言葉の障壁はまだしも、人心の障壁はさらに大きい。これが娑婆世界の衆生の現状である。

実証で電気に触れるとは、親しく電気を証得することであり、あるいは目で電気を見て、電気の状態と相貌を真実に了別することであり、あるいは耳で電気を聞いて、電流の流れる音を真実に了別することであり、あるいは鼻で電気を嗅いで、電気の香りを真実に了別することであり、あるいは舌で電気を味わって、電気の味を真実に了別することであり、あるいは身体で電気に触れて、電気の触感を真実に了別し、受覚が現れなければならない。知ることは証得することとは等しくない。証得するとは、意根と五根の一つが触れて、痺れる感覚があり、電気の流れと独自の特徴を感じ取ることである。知ることは独頭意識の連想であり、何の感覚・感受もなく、電流の性質や特徴も分からない。

知ると証得の違いは非常に大きい。例えば、あなたは長征の終点がどこかを知っているとしても、知っているだけで何の役に立つだろうか?終点がどのようなものかは結局見たことがなく、足もそこに到着したことがない。知ることは証得することとは等しくない。一歩一歩歩いて終点に到着し、終点の風景・様子を実際に見て初めて、証得したと言えるのだ。例えば、仏教徒なら誰でも極楽世界があることを知っているが、極楽世界を証得するには、自ら極楽世界に行かなければならない。阿弥陀仏が来迎して往生させてくれると聞いてはいても、結局あなたはまだ阿弥陀仏を見たことがないのだから、この事柄についてはあなたはまだ証得していない。どんな事柄でも、証得すれば、一二三四五と具体的に説明できるものだが、知っているだけでは何も説明できない。見たことがなければ、描写のしようがないのだ。

感電とはどのような感覚だろうか?電気に触れた人だけが身をもって体験できるのであり、人から聞いただけでは駄目だ。では、一体どのような人が電気を実証したのだろうか?電線を見ても、電気を見たことにはならない。電線は電気ではないからだ。洗濯機が洗濯しているのを見ても、電気を見たことにはならない。洗濯機の回転は電気ではないからだ。炊飯器がご飯を炊いているのを見ても、電気を見たことにはならない。炊飯器がご飯を炊いている状態は電気ではないからだ。様々な電気製品が働いているのを見て、心の中に電気についての知識が現れ、これで電気があると思うのは、これは憶測であり、推測が当たったとしても考えが正しかったとしても、やはり自分の目で電気や電流を見たことにはならない。電気ウナギを見て、あれで電気を実証したと言う人もいるが、それはウナギが電気を実証したのであって、あなたが実証したのではない。実証に関する理屈は、十年も議論されてきたが、まだ分からない人が多い。この世の衆生は本当に手に負えない。

実証した後は、おおよそ死ぬか傷つくかのどちらかである。だから、感電して死んだり傷ついたりした人だけが、自分は電気を実証したと言える資格があるのだ。また、どの根が塵に触れる場合でも、必ず意根が先に触れ、しかもずっと触れ続けているので、実証とは必ず意根による実証なのである。身根が電気に触れた時、意根が感じ取り、知覚する。意根は感電が良くないことを知っているので、身体をすぐに弾き飛ばし、すぐに電気から離れる。意根は感電が面白くないことを知っているので、それ以来、電気に対して非常に警戒し、電気から遠ざかろうとする。意識にはそんなことはできない。だから実証とはすべて意根による実証であり、その中には意識による証得もあれば、五識による証得もあるかもしれない。

実証して初めて、的を絞って電気を多方面から観察することができ、電気に対する理解はますます深く全面的になり、電気を正しく使用する方法をますますよく知るようになり、発明創造もますます増え、智慧はますます深まる。一方、電気製品を見て電気があると知っているだけの人は、一生を終えても元のままであり、電気について何も理解していない。知識さえ増えるとは限らない。ましてや観察の智慧など、なおさらである。

如来蔵を実証するのも同じである。真に実証した人は、如来蔵を現前して観察する能力と資本を持ち、如来蔵に対する認識はますます深くなり、心はますます空になり、徳行はますます完璧になり、観察の智慧は絶えず増大し、別相智・道種智が次第に生じてくる。説く法もますます深くなる。一方、偽って証得した人や実証していない人は、認知能力も智慧も元のままであり、何を説いても同じで、千篇一律の繰り返しで、量はあっても質がない。

——生如法師の開示
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