電の実証とは、五根の一つと意根が共に電に触れ、電を了別し、電を明らかにしたということです。了別とは現量におけるはっきりとした辨别(弁別)と感知であり、明らかにするとは現量において知って疑いがなく、疑いを断つことです。断疑・無疑惑の内涵(内包)については、まだ分かっていない人が多く、今後改めて具体的に論じる投稿を書かなければなりません。そうしないと、また「自分は断疑した、疑惑がない」と言い出す人が出てくるでしょう。現量と現前という二つの言葉の内涵についても、改めて細かく、具体的に、例を挙げて説明しなければなりません。そうしないと、まだ分からない人がいて、すぐに「自分は現量で現前にどうこうした」と言い出します。一つ一つの概念・言葉の内涵を具体的に説明し尽くしても、自分の利益に関わると、やはり言い逃れをして「自分はどれほど良いか、どれほど正しいか」と言う人がいます。言葉の障害も小さくありませんが、人心の障害はさらに大きいのです。これが娑婆世界の衆生の現状です。
電の実証とは、電を親証することです。あるいは目で電を見て、電の状態と相貌を真実に了別したこと。あるいは耳で電を聞いて、電流の運行する音を真実に了別したこと。あるいは鼻で電を嗅いで、電の香りを真実に了別したこと。あるいは舌で電を味わって、電の味を真実に了別したこと。あるいは身体で電に触れて、電の触感を真実に了別したことであり、受覚が現れなければなりません。知っていることは証到(証得)したことと同じではありません。証到とは、意根と五根の一つが触れて、痺れるような感覚があり、電の流れとその特有の特徴を感受したことです。知っているというのは、独頭意識が連想したものであり、どんな感覚・感受もなく、電流の性質や特徴も分からないのです。
知っていることと証到することの差は非常に大きいのです。例えば、あなたは万里の長征の終点がどこにあるか知っているとしましょう。しかし、知っていることに何の用があるでしょうか。終点がどのようなものかは結局見たことがなく、足も運んだことがありません。知っていることは証到したことではなく、一歩一歩終点まで歩いて、終点の風景や姿を見て初めて証到したことになるのです。例えば、学仏の人は誰でも極楽世界があることを知っていますが、極楽世界を証得するには自ら極楽世界に行かなければなりません。阿弥陀仏が接引して往生させると聞いていますが、結局あなたはまだ阿弥陀仏にお会いしたことがないので、この事については証得していないのです。どんな事でも、証得すれば、一二三四五と語ることができます。知っているだけでは何も語れず、見ていなければ描写しようがないのです。
感電とはどのような感覚でしょうか。電に触れたことのある人だけが自ら体験でき、聞いた話では駄目です。それでは、一体どのような人が電を実証したと言えるのでしょうか。電線を見たことは電を見たことにはなりません。電線は電ではないからです。洗濯機が洗濯をするのを見たことは電を見たことにはなりません。洗濯機の回転は電ではないからです。炊飯器がご飯を炊いているのを見たことは電を見たことにはなりません。炊飯器が炊いている状態は電ではないからです。様々な電化製品が働いているのを見て、心の中に電についての知識が現れ、「今電がある」と考えるのは、憶測・推測にすぎません。推測が当たった、考えが合っていたとしても、それは電や電流をこの目で見たことにはなりません。ウナギなら電を実証したと言う人がいますが、それはウナギが電を実証したのであって、あなたではありません。実証についての理を十年かけて論じても、まだ分からない人が多く、この世界の衆生は本当に手を焼きます。
実証した後は、ほとんど死ぬか傷つくかしなければならないので、電で死んだり傷ついたりした人だけが、電を実証したと言う資格があるのです。また、どの根が塵に触れる場合でも、必ず意根が先に触れ、かつ触れ続けなければならないので、実証は必ず意根の実証でなければなりません。身根が電に触れたとき、意根は知り、受があり、意根が良くないと感じるので、感電すると身体はすぐに弾き飛ばされ、すぐに電から離れます。意根は感電が面白くないことを知っているので、その後は電に対して非常に警戒し、できるだけ電から遠ざかろうとします。意識にはこれらはできません。したがって、実証はすべて意根の実証であり、その中に意識の証もあり、五識の一つも含まれるかもしれません。
実証した後でこそ、的を絞って全方位から電を観察することができ、電に対する理解がますます深く全面的になり、電の正しい使用方法をますます理解し、より多くの応用を開発でき、智慧はますます深くなり、発明・創造もますます増えていきます。一方、電化製品を見れば電があると分かるという人は、一生かかっても元のままで、電に対して依然として何も知らず、知識すら必ずしも増えないのです。まして観察の智慧などなおさらです。
如来蔵の実証も同じです。真実に証した人は、如来蔵を現前観察する能力と資本があり、如来蔵に対する認識はますます深くなり、心はますます空になり、徳行はますます完璧になり、観察の智慧は絶えず増加し、別相智・道種智が次第に生じてきて、説く法はますます深くなっていきます。一方、仮証・虚証の人は、認知の水準も智慧も相変わらずで、増えることはなく、何を説いても同じことの繰り返しで、千篇一律に反復し、数量はあっても質がないのです。
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