問:足を刀で切られた場合、足の接触する塵が後脳の勝義根に伝わり、根と塵が触れ合うことで、身識と意識が生じ、三者和合して痛みを感じます。身体の痛みの感覚はすべて後脳の勝義根で生じ、浮塵根である足には感覚も痛みもありません。このように法義を理解し受け入れることはできます。しかし、実際の痛みの感覚は刀で切られた足の部分にあり、後脳の部分には痛みの感覚がありません。禅定による観照の力が足りない私にとって、どのように仏法で説明すればよいのでしょうか。
答:身体の各部位の様々な情況や様々な塵境は、すべて神経を通じて勝義根内の対応する位置に伝わり、そこから識心が生じて対応する塵境を受け取ります。識心は勝義根の中にあるので、受(感受)はすべて勝義根の中で起こります。受は識心の受である以上、勝義根と浮塵根という二つの色法には感受がなく、痛みを感じることはありません。痛みの感覚は必ず勝義根の中の識心にあります。識心が感じる勝義根の部位は、浮塵根の対応する身体部位に対応しているため、その部位が痛むように感じられますが、実際には浮塵根に対応する勝義根の識心が痛みを感じているのです。
したがって、受覚はすべて錯覚です。この錯覚はいつ消滅するのでしょうか。四禅定を証得して色陰の区宇を突破した後にはじめて、感受の受覚を滅することができます。その時、身体が刀で切られたり、焼かれたり、肢解されたりしても、痛みを感じることはありません。なぜなら、この時点で色陰の区宇を超越しているからです。色身は識心を妨げず、覆い隠すこともありません。身体は色であり、識心を覆い隠す作用があるため、これを色陰と呼びます。色陰の覆いを突破するには禅定の力が必要であり、四禅定に達することで突破できます。そうすれば、もはや色身に左右されず、環境にも左右されません。
一つの色身には一つの勝義根があり、後脳の部位にあります。六識はそこで生起し活動します。意根は勝義根の制約を受けず、第八識はなおさら勝義根の制約を受けず、あらゆる場所に遍在し作用します。勝義根の外にも色法は存在し、色身全体は勝義根とは異なります。両者には関連性がありますが、区別もあります。
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