離相寂滅分第十四原文:须菩提。如来所得法。此法无实无虚。
解釈:須菩提よ、如来が修めて得た法は、この法は実有でもなければ虚妄でもない。
如来は果たしてどんな法を得ることができるのでしょうか。なぜ実でもなく虚でもないのでしょうか。如来が成就した法を簡単に概括して言えば、五蘊身を持つ如来は一切の染汚と無明を取り除き、最終的に無上正等正覚を証成し、無上菩提を円満し、比類なき荘厳な三十二相を具足し、清浄荘厳な仏国土を建立して、縁ある衆生を接引し、ともに仏道を成じました。そして五蘊身を持たない法身仏 (dharma-kāya-buddha) である無垢識 (amala-vijñāna) は、最終的に転識成智を成し、大千を照らす大円鏡智 (ādarśa-jñāna) となり、その功徳性能は円満に一切の法を普く照らし、一法として知らざるなく、一法として覚らざるなく、一法として照らさざるものはありません。
三十二相を持つ報身仏 (saṃbhoga-kāya-buddha)、応身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha)、化身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha) であっても、あるいは無相の法身仏 (dharma-kāya-buddha) であっても、その得た法は実でもなく虚でもなく、有でもなく無でもありません。もしこれらの法が虚であると言うなら、しかし諸仏は結局のところ三十二相を具えており、結局のところ転識成智を成しており、結局のところ仏果を証成しており、結局のところ無量の衆生を広く度しており、結局のところ無数億の分身を現すことができ、結局のところ無数の仏国土を建立することができ、結局のところ一切種智 (sarvākārajñatā) を円満しており、結局のところ知らざる法はなく、円明ならざる事はなく、智慧は清浄 (viśuddha/pariśuddha) 無余であり、また結局のところ尽きることのない智慧の功用と徳能を増加して円満に達し、無上尊となりました。これらの法は、如来においてすべて真実に存在し、虚構ではなく、想像ではありません。諸仏如来は三大無量数劫の辛苦な修道において、忍び難きを能く忍び、行い難きを能く行い、衆生のために、仏教のために、尽きることのない心血と労苦を捧げました。その功徳は、無数劫をもってしても語り尽くすことができず、讃え尽くすことができません。
もし如来の得たこれらの法が実であると言うなら、しかしこれらの法は結局のところ生滅変異するものであり、無垢識 (amala-vijñāna) によって幻化されたものであり、無垢識 (amala-vijñāna) によって顕現されたものです。たとえば如来の五蘊身も因縁によって生じたものであり、縁が滅すれば散ります。五蘊身に随って有る三十二相も、縁に随って散っていきます。縁が聚まれば、如来はまた無数また無数の五蘊身と三十二相、八十種好を現起します。如来が衆生を度するために化現した仏国土は、縁起すれば即ち現れ、縁が滅すれば即ち散ります。縁が聚まれば、また無数の諸仏国土を化現し、これによって無量また無量の多くの衆生を受け容れ摂受します。如来の無垢識 (amala-vijñāna)、大円鏡智 (ādarśa-jñāna) だけが、永遠に決して変異することのない真実の法であり、実有にして虚妄ではありません。
原文:须菩提。若菩萨心。住于法而行布施。如人入暗。则无所见。若菩萨心不住法。而行布施。如人有目。日光明照。见种种色。
解釈:須菩提よ、もし菩薩が布施 (dāna) を行う時に、心が六塵の相に住して布施 (dāna) を行うならば、それはまるで人が暗黒の場所に入ったようなもので、暗闇しか見えず、他の何も見ることができません。もし菩薩が布施 (dāna) を行う時に、心が六塵の相に住せず、いかなる法にも住せずに布施 (dāna) を行うならば、それはまるで人が眼が完全で、太陽の光明がちょうど照り降りているようなもので、種々の色相を見ることができ、暗闇に蒙蔽されることがありません。
なぜ心が相に住して布施 (dāna) を行うと、暗闇に蒙蔽され、色相を見ることができないのでしょうか。この菩薩は、心目の中がすべて色相であり、色相しか認めないので、色相の背後にある真実の法相を見ることができず、心が色相に蒙蔽され、その見るところはすべて虚妄の相であり、実相と相応しないので、この菩薩は虚妄の相に繫縛され、ついに解脱を得ることができません。たとえば菩薩が布施 (dāna) をするのは、外貌の荘厳を得るため、富貴な果報を得るため、天に昇って享楽するため、他人の羨望を得るため、転輪聖王の王位と衆生に対する統治を得るためなどです。これらはすべて世間の有為法であり、縁が散れば必ず滅します。このような心行は金剛般若の実相心 (dharmatā-citta) と相応せず、心が空浄を得ることができなければ、菩提の正果を得ることはできません。
もし菩薩が布施 (dāna) をするにあたって、六塵の相に著するならば、六塵の相の真実の相を見ることができず、六塵がすべて実相心 (dharmatā-citta) の変現と執持によるものであり、すべて実相心 (dharmatā-citta) である如来蔵 (tathāgatagarbha) の功用であることを証得することができず、無生忍と無生法忍を得ることもできません。相に住する布施 (dāna) は、有所得の心をもって世俗の法を求めるものであり、その心量は狭小で、見るところは限られ、その智慧は広大でないので、仏道を成就することができません。もし菩薩が心に相を住せず布施 (dāna) を行うならば、心に所得がないがゆえに、菩提心と相契し、相符し、相応し、必ず菩提を証成することができます。この菩薩は六塵の相に著さないので、我相、人相、衆生相、寿者相にも著さず、内心は空浄で、心に所得がなく、時時諸法の実相を見ることができます。その心量は広大で、福德は広大であり、無生智と無生法忍智も次第に広大無辺となり、速やかに仏道を成就し、菩提を円満することでしょう。
原文:须菩提。当来之世。若有善男子。善女人。能于此经受持读诵。则为如来。以佛智慧。悉知是人。悉见是人。皆得成就。无量无边功德。
解釈:須菩提よ、未来の末法の世に、もし善男子、善女人がいて、この経を尽心して受持読誦することができるならば、私は如来の持つ清浄 (viśuddha/pariśuddha) 広大な仏の智慧をもって、これらの人々をことごとく知り、これらの人々をことごとく見て、みな無量無辺の功徳を成就させます。
なぜこの金剛般若波羅蜜経を受持読誦する善男子と善女人が、みな無量無辺の功徳を成就できるのでしょうか。金剛経を聞くことができる人は、自分自身およびすべての衆生が金剛不壊の心を具足していることを知り、その福德はすでに思量 (manasikāra/manana) できないほどのものです。聞いた後、如理に修行することができ、この金剛般若の実相心 (dharmatā-citta) を証得すれば、その福德はなおさら不可思議です。その智慧もますます深広となり、度すところの人天の大衆もまた限量できず、将来は速やかに仏道を成就することでしょう。金剛経を受し持とうとするならば、すでに金剛般若の実相心 (dharmatā-citta) を証悟した人でなければなりません。さもなければ真に信受することができず、真に行持することもできません。
行持とは、金剛実相心 (dharmatā-citta) に依止して、七識心の染汚と無明を修除し、般若 (prajñā) の大智慧を増長することです。読とは、如来蔵 (tathāgatagarbha) の般若 (prajñā) の義を解読し、了解することです。誦とは、その般若 (prajñā) の義がすでに心に熟達し、深く心に植え付けられていることです。受とは、領受領納することであり、如来蔵 (tathāgatagarbha) を証得した後、如来蔵 (tathāgatagarbha) の体性と運作を領受し、観察し、観行 (vipaśyanā-caryā) することができるのです。持とは、如来蔵 (tathāgatagarbha) に依止して、自分の心行を変えることです。だから如来蔵 (tathāgatagarbha) を証悟しなければ、真に読誦受持することができず、如来蔵 (tathāgatagarbha) の法を広く宣伝することができず、無量の衆生を広く度することができません。だから金剛般若波羅蜜経を受持読誦する善男子と善女人は、みな無量無辺の功徳を成就することができるのです。
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