衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年02月06日    金曜日     第1開示 合計4602開示

てきせいの念仏体験(2026-02-03)

涤生:末学は正確に言えばまだ念仏三昧を証得してはいませんが、このところ夜の坐禅の際、脳裏にいつも仏号が響き、坐禅を終えた後も同様で、師父の本を読んでいる時も止められません。今もそうで、昨夜は「騒がしくて」三時まで眠れず、朝起きると、なにはさておき仏号を唱え始めました。末学は厚かましく、以前如願師父が念仏三昧のグループを設立される前から、よく如願師父を煩わせて心念心听(心で念じ心で聞く)の問題を伺っていました。当時は心が浮ついて落ち着かず、十数分念仏するだけで意根が耐え難くなり、この三昧の境地は本当に遠いものだと思っていました。

転機はあの日訪れました。末学は男女の欲念に悩まされ、この感覚こそが苦であると感じ、坐禅すら静心できませんでした。やむなく厚かましくも生如師父にどう対治すべきか伺いに行きました。師父は私に『楞厳経』を読むようにと言われ、読み始めた当初は少し怖くなりましたが、数日経って覚悟を決めて楞厳咒を読誦すると、読んでいるうちにいつも地蔵菩薩の御像の前で懺悔するようになりました。いつの日か、午後いっぱい仏号を唱え続けられるようになりました。それから如願師父の指導に従い、心念心听を実践しました。聞いているうちに、仏号の声が脳裏で「自動再生」されるようになりました。信心がそれに伴って増していきました。最近、特に夜になると、脳裏で仏号の声が止まらなくなり、聞こうとしなくても脳裏に響き渡り、とらわれの心も減りました。ここ数日は仏号の声が途切れることがありません。仕事がない時は、末学はただぼんやりと仏号を聞き、脳裏の雑念が少なくなりました。

末学の懺悔は誠心を込めたもので、無始劫以来数多くの大罪を犯し、また今生で造った様々な罪業に対し、深い罪悪感と後悔の念を抱き、地蔵菩薩の荘厳な御像の前で心から懺悔しました。時が経つにつれ、御像がますます生き生きとしてくることに気づき、菩薩の慈悲深い眼差しが私の全てを見透かしているかのようで、時には恐れおののく心で跪いて『地蔵経』を読み、罪業を懺悔することもありました。

私は師父の教えに従い、師父の本に「仏教を学び始めた者は必ず楞厳咒を読誦すべきであり、そうすれば仏菩薩と護法善神の加護を得て、業障を消除できる」と書かれているのを見ました。末学は今日の内容を、私に結婚や子作りを強要し、多くの眷属を持つことを望む年長者たちにも転送します。私の今生の「世俗の任務」は終わりにします。これには全く興味がありません。世俗は苦に満ちていますが、私は修行の「苦」で世俗の貪・瞋・痴の苦しみを置き換えるのが好きです。

末学は動画配信でスポーツ観戦をしたいと思いましたが、念仏の妨げになるのを恐れました。そこで、動画を見ながら意根が継続して念仏できるかどうかを試そうと決めました。試合全体は非常に見応えがあり、過程がどれほど精彩でサスペンスに満ちていても、仏号は髪の毛のように細くても脳裏で途切れることなく続きました。今に至るまで、仏号の声は特に聞こうとしなくても持続的に唱えられており、全く止められません。

講評:涤生の進歩は神速と言っても過言ではなく、まさに驚くべき速さです。その理由は彼の修道心が非常に強く、懺悔があまりにも誠実で、効果が非常に良かったため、業障が消除され、その後自然に念仏の功夫が生じたことにあります。表面的な形式だけの懺悔は、誠心がなければ加護の力もなく、効果もありません。誠実な懺悔によって業障が消除され、心が清浄になると、地蔵菩薩の御像が生き生きとし、眼差しが慈悲深く感じられるようになります。これは心が転じたことによって見える現象であり、自心が感じ現したものであり、万法唯心所現(すべての現象は心が造り出すものであること)、境界は心から生じ、心が転ずればすべてが転ずることを示しています。


——生如法師の開示
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