離相寂滅分第十四原文:是故须菩提。菩萨应离一切相。发阿耨多罗三藐三菩提心。不应住色生心。不应住声香味触法生心。应生无所住心。若心有住。则为非住。是故佛说。菩萨心不应住色布施。须菩提。菩萨为利益一切众生。应如是布施。
解釈:したがって、須菩提よ、菩薩は一切の相を離れて阿耨多羅三藐三菩提心を発し、成仏して衆生を利楽せんとする心を起こすべきです。色法に住して心を生ずべきではなく、声香味触法に住して心を生ずべきでもありません。菩提心を発する時は、無所住の心を生じさせるべきです。もし菩薩の発心がこれらの法相に住するならば、これらのいわゆる住はすべて非法の住であり、如理に合わない住であり、その結果はすべて空幻で得ることはできず、住もうとしても住むことができません。それゆえ仏は、菩薩の心は色法に住して布施すべきではないと説かれたのです。須菩提よ、菩薩は一切の衆生を利益するために、このように無所住で布施を行ずべきです。
なぜ菩薩は一切の相を離れて菩提心を発すべきなのでしょうか。菩提心を発するのは自利利他のためであり、衆生とともに仏道を成就し、涅槃の彼岸に到達し、寂静清凉を得て、空寂の境界の中に安立するためです。そしてこのような境界に到達し、このような境界を証得するには、金剛心 (vajra-citta) の実相を実証すると同時に、金剛心が顕現する一切法の空相をも証得しなければなりません。一切法相はすべて空であり、得ることはできないのですから、相に住して発心し、相に住して修行し、相に住して布施することは、いずれも仏道に背反し、菩提を証得することはできません。それゆえ菩薩が菩提心を発するにあたっては、世間の種々の得られない利益のためにあってはなりません。たとえば荘厳な相貌を得るため、富貴栄華を得るため、天に生まれて福を享受するため、神通を得るため、長生不老を得るため、衆生の崇拝を得るため、他の人に勝つため、転輪聖王になるため、天主になるためなど、これらはすべて色声香味触法に住しているのであり、菩提の大願を実現することはできず、菩提の大道を成就することはできません。
もし心に住するところがあり、六塵の相に住し、六塵の相に執着するならば、それは如法でない住であり、無上菩提と相応しません。それゆえ仏は、菩薩が発心して布施を修行するにあたっては、色に住して布施すべきではなく、色法上の利益のために布施を行じてはならないと説かれたのです。声香味触法に住すべきではなく、声香味触法の利益のために布施波羅蜜を行じてはならず、金剛心のように一切法に対して無所住の発心をすべきです。
なぜ菩薩は色声香味触法に住して心を生ずべきではないのでしょうか。第一に、金剛般若心は相に住しない菩提心であり、神様はそれ自体、一法にも住しないからです。識心が菩提心の体性と一致してこそ成仏でき、識心がもし六塵の相に住するならば、空ではなく、金剛心の体性に違逆し、金剛般若心と相応せず、それでは仏道を成就できません。第二に、六塵の相は生滅変異の法であり、久しく住することのできない法であって、相に住して修行すれば、功は唐捐され、菩提を得ることができないからです。第三に、相に住して布施すれば、心中に相があり、遮障があり、無明があり、法界の実相を徹見できず、心が空浄でなければ涅槃の彼岸に到達できず、心中に法があれば、仏果を成就できないからです。それゆえ菩薩は仏道を修行するにあたって、無所住に発心修行すべきなのです。
もし菩薩の心に住するところがあって布施を行ずれば、利益を得る衆生は少なく、一切の衆生を普遍に利益することはできません。その心には限量があり、福德には限量があり、智慧にも限量があるので、すべての衆生を普遍広範に利益することができないからです。
原文:如来说一切诸相。即是非相。又说一切众生。即非众生。须菩提。如来是真语者。实语者。如语者。不诳语者。不异语者。
解釈:如来は三界世間の一切の相は真に実有の相ではないと説かれ、また一切の衆生も真の衆生ではなく、実質のない衆生相であるとも説かれました。須菩提よ、如来は真実語を説く者であり、決して虚偽の言葉を説かず、如来は実語を説く者であり、決して妄語を言わず、如来は虚誑語を言わない者であり、決して衆生を欺誑せず、如来はまた二頭語を説かない者であり、決して二種の語を説かれません。
世間の一切の相は、いずれも如来蔵 (tathāgatagarbha) が幻化した生滅変異の虚妄の相であり、自主性も自在性もなく、自己の実体性の存在はなく、その実質はすべて如来蔵性です。すべての衆生相も、いずれも如来蔵が幻化した虚妄の相であり、自主性も自在性もなく、真実の自体性はなく、表面から見れば衆生の属性があるように、衆生の五陰 (pañca-skandha) の活動があるように見えますが、実際にはすべて如来蔵が顕現し幻化したものであり、真実の意味における衆生相はありません。
如来という語は、表向きは五蘊身の仏を指し、裏向きは法身仏 (dharma-kāya-buddha) を指します。法身仏は形もなく相もなく、仏の無垢識 (amala-vijñāna) と衆生の如来蔵であり、法身仏の如来とは、真如の心体を指し、如来蔵を指します。成仏の後、仏の七識と法身の無垢識は、その性徳が相近く、すべての無明を滅し尽くしているので、その心性は真如に非常に近く、心所法はすべて同じであり、五遍行心所、五別境心所、善十一の心所があり、八つの識はいずれも二十一心所法を具えています。
真語とは、正真の語です。現量の語であり、如来蔵が現量の境を変現し得ること、比量も非量もないことを意味します。いずれも実事に合い、事実に合い、衆生の業種にも合っており、常に如実に衆生の業行の原貌を呈示します。実語とは、如実の語です。衆生が業を造作するにあたり、善悪であれ無記 (avyākṛta) であれ、如来蔵は如実に記録し、収蔵し、出力し、如実に衆生の業果を実現し、決して衆生の業行、業種、業果報を変更したり疏漏したりすることはなく、あるべき業であればその業を記録し、あるべき果報であればその果報を実現します。
如語とは、一方では如実語、真実語を指し、他方では心体の如如不動性を指し、心を動かすことなく、心行がないことを意味します。如来蔵は一切法を変造する時、内心は如如不動であり、心を生じて念を動かすことはありません。情緒もなく、情感もなく、まったく捨受 (upekṣā-vedanā) です。不誑語者とは、誑とは誑惑、欺瞞、詐欺のことであり、如来蔵は決して衆生を欺誑したことがなく、決して衆生を欺いたことがありません。ところが衆生の六識は常に口業が不善であり、言語は欺誑で、真実語を説かず、如実語を説かず、妄語、両舌、綺語、悪口が絶えません。しばしば声東撃西、指桑罵槐を行い、事実の真相を隠蔽し、嘘をでっち上げ、如実語でないこと、妄語を言うことに慣れ、嘘をつき、身を庇い、賢を嫉み能を妬み、あらゆる口業を造ります。
不異語者とは、異とは変異、不同、変更、別種、別異のことです。異語とは、面と向かっては一つで背後ではまた一つ、甲にはこう言い、乙には別のことを言い、あるいは今はこう言い、あとでまた別のことに変わる、これは二様の語であり、あるいは言ったそばから変わり、言ったことが当てにならないことです。これらの心行はすべて凡夫の六識の心行であり、六識の造る口業が不善で、口徳がないのはまさにこのようなものです。しかも慚愧を知らず、悔悟を知らず、無慚無愧であることは、すなわち煩悩の悪習です。ところが如来蔵は決して二語を説かず、違った言葉を説かず、変えたりまた戻したりすることもなく、転倒錯乱することもありません。神様は衆生の善業種を収蔵しておきながら悪業種を出力して衆生に悪報を受けさせることはなく、逆に、悪業種を収蔵しておきながら善業種を出力して衆生に善報を受させることもありません。神様は面と向かっては一つで背後ではまた一つということはなく、いかなる変異も生じることなく、業種と因果に忠実でないことはありません。
また五蘊身を有する報身仏 (saṃbhoga-kāya-buddha)、応身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha) および化身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha) も、法身仏と同様に、永遠に真語者であり、永遠に実語者であり、永遠に如語者であり、永遠に不誑語者であり、永遠に不異語者です。仏の七識心はすでに一切の無明煩悩および煩悩の習気を滅し尽くし、すでに究竟に転識成智しており、その徳は比類なく無上であり、その口業は尽善尽美で、一丝の瑕疵もなく、円融無碍で、十方世界のすべての衆生をして、比類なき慕仰と頂戴をさせているからです。
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