離相寂滅分第十四原文:何故ならば。須菩提よ。我が昔、歌利王の為に身体を割截せられし時、我その時に於いて、我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相なし。何故ならば。我が往昔、節々支解せられし時、若し我相・人相・衆生相・寿者相あらんには、応に瞋恨を生ずべし。須菩提よ。また過去五百世に於いて忍辱仙人と為りしを念うに、それらの世に於いて、我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相なし。
釈:何故に忍辱波羅蜜を以て忍辱波羅蜜に非ずと為すや。須菩提よ、例えば我が往昔、歌利王に身体を割截せられし時、我当時に於いて内心に我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相なかりき。何故に斯くの如く言わざるや。我が往昔、人に一節々々に身体を肢解せられし時、若し我が心に我相・人相・衆生相・寿者相あらんには、応に心に瞋恨を生ずべかりし故なり。須菩提よ、我また思い起こすに、過去五百世に忍辱仙人と為りしに、我その五百世に於いて、内心に我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相なかりき。
世尊が往昔、歌利王に身体を割截せられし時、心中に我相・人相・衆生相なかりしが故に、歌利王に対し瞋恨心を生ぜざりき。世尊に若し我相あらんには、「我が身体を割截せられ、我は甚だ苦しむ」と感じ、苦痛の故に瞋恨心を生ぜん。世尊に若し人相・衆生相あらんには、「歌利王が従者に命じて我が身体を割截損壊せしめ、我が身体に痛触を引起せり」と感じ、歌利王及びその従者らに対し瞋恨心を生ぜん。然るに世尊当時、確かに我相・人相・衆生相なかりし故、歌利王が自らの身体を一節々々に肢解せしにも拘わらず、世尊は如何なる瞋恨をも生ぜず、表面上世尊は忍辱行を修し、忍辱波羅蜜有りと見ゆれども、実際には世尊は忍辱せず。何となれば世尊の心に相なき故、辱めを受けたるを覚えず、忍ぶ必要もなく、即ち忍辱無く、忍辱波羅蜜無きが故なり。
世尊は過去生五百世に忍辱仙人と為り、専ら忍辱波羅蜜を修せしも、然るに世尊は我相・人相・衆生相なき故、辱め有るを覚えず、従って何をか忍ぶべきものあるを覚えず、忍辱波羅蜜有りながら忍辱相無し。即ち世尊の忍辱波羅蜜は即ち忍辱波羅蜜に非ず。世尊に若し心中にこれらの相あらんには、忍辱を要し、即ち忍辱波羅蜜有らん。故に所謂る忍辱波羅蜜は、即ち忍辱波羅蜜に非ず。これは忍辱行を成就せし者の境界なり。未だ忍辱行を成就せざる者は、忍辱相有らん、恐らく忍辱波羅蜜も有らん。
同じく、布施波羅蜜を修する者も、若し心中に我相・人相・衆生相・寿者相なきには、我が布施する相無く、我が誰に何の財物を布施したるかに拘わらず、即ち布施相無く、布施波羅蜜も無からん。心中は空しく清浄にして広大無辺、掛礙無く、得る所の福は最も広大にして量り無く辺際無し。持戒者も若し心中に我相・人相・衆生相・寿者相なきには、則ち我が持戒する相無く、持つ所の戒相無く、則ち持戒波羅蜜相無し。戒無くして守るべきも持つべきも無く、始めて真実の持戒なり。負累無く、心空しく掛礙無し。精進波羅蜜・禅定波羅蜜・智慧波羅蜜を修するも皆斯の如し。我相・人相・衆生相・寿者相なきには、則ち精進波羅蜜相無く、禅定波羅蜜相無く、智慧波羅蜜相無く、修行相無くして、始めて真実の精進・静慮・智慧なり。
世尊は智慧と禅定の証量によりて、受蘊尽きることを証得せられし故、身体に受覚無く、割截せられし時に痛覚無く、四肢を肢解せられしにも耐え忍び、昏倒することも無かりき。世尊当時に若し人相・衆生相あらんには、歌利王に対し甚だ憤慨し、「此の者が我を欺辱し、我に対し甚だ残酷・横暴なり」と感じ、歌利王に対し瞋恨を生じ、且つ歌利王を呪詛し、歌利王及び手下の者に復讐せんとせん。世尊当時に若し寿者相あらんには、奮起して反抗し、歌利王及び殺し屋が来たりて己が身体を割截破壊するを阻止せん。何となれば身体を割截することは即ち死を予示し、生命は消失し、一期の寿命は終了せんとする故なり。然るに世尊当時は反抗せず、瞋恨を生ぜざりき。故に世尊当時は四相無かりしことを証明す。
当時世尊は即ち四相を離れたる菩薩なりき。六波羅蜜を修行する菩薩として、忍辱仙人と示現し忍辱行を修し、四相を離るる修行は既に五百世に及べり。
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