離相寂滅分第十四原文:何以故。须菩提。如来说第一波罗蜜。即非第一波罗蜜。是名第一波罗蜜。须菩提。忍辱波罗蜜。如来说非忍辱波罗蜜。是名忍辱波罗蜜。
解釈:なぜこのように言うのでしょうか。須菩提、如来が第一波羅蜜と言われるのは、真に第一波羅蜜というものが存在するわけではなく、第一波羅蜜は真実の相ではなく、ただ布施の行に第一波羅蜜という名をつけたものです。須菩提、忍辱波羅蜜についても、如来が言われるには真に忍辱波羅蜜というものがあるのではなく、忍辱波羅蜜もまた幻化した仮の相であり、ただ忍辱の行に忍辱波羅蜜という名をつけたものです。
菩薩の六度とは、布施 (dāna)、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧です。もし大菩提心を発し、仏道を成就するために六度を行うならば、涅槃の彼岸に到達することができ、行った六度は六度波羅蜜と呼ばれます。波羅蜜とは涅槃の彼岸に到るという意味であり、もし菩提心がなくて六度を行うならば、六度は単なる善法にすぎず、波羅蜜はなく、涅槃の彼岸に到達することはできません。
六度波羅蜜のうち最初は布施波羅蜜です。菩薩のすべての布施行は金剛心 (vajra-citta) によって成就され、金剛心によって幻化され執持されたものであり、生滅、変異、無常です。それゆえ布施波羅蜜は空相・仮相であり、真実相ではなく、すなわち第一波羅蜜に非ず、仮に第一波羅蜜と名づけるのです。忍辱波羅蜜の行は、金剛心によって幻化され成就されたものであり、実質的な属性はなく、真実の忍辱の相もなく、真実の波羅蜜の相もありません。それゆえこれも空相・仮相であり、真実に存在する相ではなく、したがってこれも忍辱波羅蜜に非ず、仮に忍辱波羅蜜と名づけるのです。持戒波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜、智慧波羅蜜もすべて同様であり、いずれも波羅蜜に非ず、真実相はなく、いずれも幻化した空相・仮相であり、仮に波羅蜜と名づけるのです。
菩薩たちが六度波羅蜜を修行すれば、明心見性を得て、涅槃の彼岸に到達することができます。しかしこの六度波羅蜜は如来蔵 (tathāgatagarbha) の実相に依って有り、また菩薩の五蘊の幻身に依ってこそ、六度波羅蜜を修行することができるのです。五陰の身が真実でなく仮相である以上、五陰の身に依って修行する六度波羅蜜は、当然いっそう仮相であり、いっそう非相なのです。いわゆる忍辱波羅蜜とは、実は一つ一つ、あるいは無数の虚偽の事相にすぎず、いずれも実相そのものではありません。虚偽の事相は意根の心行の相であり、また如来蔵が生じさせ顕現させた相でもあり、表面上は有ですが、実質的には無なのです。忍辱波羅蜜の修行は生滅変異する法であり、常住不変異のものではありません。一つの忍辱行が作り出されると、まもなく滅し、次にまた別の忍辱行が生じ、また滅していきます。無数の忍辱行が、菩薩の忍辱波羅蜜を構成しており、菩薩はこれに依って、生死の彼岸に到達することができるのです。
忍辱行は五陰の身と七識の行です。五陰そのものがすでに非相であり、七識は刹那に生滅変異し、六識は毎日一度は断滅するのであり、いずれも虚妄不実です。まして五陰・七識に依って有る忍辱行は、なおさら非相であり、なおさら虚妄です。それゆえ忍辱波羅蜜には自体性がなく、自在のものではなく、ただ一つの表相、一つの名前にすぎないのです。
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