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日常法話

2026年02月03日    火曜日     第1開示 合計4599開示

金剛経講解.なぜ忍辱波羅蜜は忍辱波羅蜜に非ずと説かれるのか?

離相寂滅分第十四原文:何以故。须菩提。如我昔为歌利王。割截身体。我于尔时。无我相。无人相。无众生相。无寿者相。何以故。我于往昔。节节支解时。若有我相人相众生相寿者相。应生嗔恨。须菩提。又念过去于五百世。作忍辱仙人。于尔所世。无我相无人相。无众生相。无寿者相。

解釈:なぜ忍辱波羅蜜は非忍辱波羅蜜なのでしょうか?須菩提、たとえば私が往昔、ウダヤナに身体を割截された時、私はその時、内に我相がなく、人相がなく、衆生相がなく、寿者相がありませんでした。なぜこのように言わないのでしょうか?私が往昔、身体を一節一節に肢解された時、もし私の心に我相、人相、衆生相、寿者相があったなら、瞋恨の心が生じたはずです。須菩提、私はまた、過去の五百世において忍辱仙人であったことを思い出します。私はその五百世の間、内に我相がなく、人相がなく、衆生相がなく、寿者相がありませんでした。

世尊が往昔、ウダヤナに身体を割截された時、心の中に我相・人相・衆生相がなかったので、ウダヤナに対する瞋恨の心は生じませんでした。世尊にもし我相があったなら、「私の身体が割截された、私は苦しい」と感じ、その苦しみゆえに瞋恨の心が生じたでしょう。世尊にもし人相・衆生相があったなら、ウダヤナが従者に命じて自分の身体を割截し損ない、身体に痛みの触を引き起こしたと感じ、ウダヤナとその従者たちに対して瞋恨の心を生じたでしょう。しかし世尊は当時、確かに我相・人相・衆生相がなく、ウダヤナが自分の身体を一節一節に肢解したにもかかわらず、世尊はいかなる瞋恨も生じませんでした。表面上は世尊が忍辱行を修めており、忍辱波羅蜜があるように見えますが、実際には世尊は忍辱していません。世尊の心には相がなかったので、辱めを受けたとも感じず、忍ぶ必要もなく、それなら忍辱はなく、忍辱波羅蜜もないのです。

世尊は過去生の五百世において忍辱仙人となり、専ら忍辱波羅蜜を修めましたが、世尊には我相・人相・衆生相がなかったので、辱めがあるとも感じず、忍ぶべきものがあるとも感じず、忍辱波羅蜜には忍辱の相がなく、世尊の忍辱波羅蜜はすなわち非忍辱波羅蜜なのです。世尊の心にもしこれらの相があったなら、忍辱が必要となり、忍辱波羅蜜があることになります。だからこそ、いわゆる忍辱波羅蜜は、すなわち非忍辱波羅蜜なのです。これは忍辱行を修め完成させた人の境界であり、まだ忍辱行を修め完成させていない人には忍辱の相があり、忍辱波羅蜜もあるかもしれません。

同様に、布施 (dāna) 波羅蜜を修める人も、心の中に我相・人相・衆生相・寿者相がなければ、自分が布施しているとも感じず、誰に何の財物を布施したかを執着しなければ、布施の相はなく、布施波羅蜜もありません。心は空で清浄 (viśuddha/pariśuddha) で広大であり、掛礙がなく、得る福は最も広大で、無量無辺です。持戒者も心の中に我相・人相・衆生相・寿者相がなければ、自分が持戒しているという相はなく、持つべき戒の相もなく、持戒波羅蜜の相もなく、守るべき戒も持つべき戒もないことこそ、真の持戒であり、負担がなく、心は空で無礙です。精進波羅蜜、禅定波羅蜜、智慧波羅蜜を修めるのもすべて同様で、我相・人相・衆生相・寿者相がなければ、精進波羅蜜の相はなく、禅定波羅蜜の相はなく、智慧波羅蜜の相はなく、修行の相もなく、それこそ真の精進、静慮、智慧なのです。

世尊は智慧と禅定の証量によって受陰尽を証得し、身体に受覚がない状態にできるので、身体を割截された時に痛みを感じず、四肢を肢解されても耐え抜き、気を失うこともありませんでした。世尊が当時、人相と衆生相があったなら、ウダヤナに対して憤り、この人は自分を欺辱している、自分に対して残酷で、横暴だと考え、ウダヤナに対して瞋恨を生じ、ウダヤナやその手下を呪い、報復しようと考えたでしょう。世尊が当時、寿者相があったなら、立ち上がって抵抗し、ウダヤナや殺し屋が自分の身体を割截し破壊するのを阻止したでしょう。身体を割截されることは死が迫っていることを意味し、生命が消滅し、一期の寿命が終わろうとしていることを示すからです。しかし世尊は当時、抵抗せず、瞋恨も生じなかったので、世尊が当時、四相のないことを証明しています。

当時の世尊はまさに四相を離れた菩薩であり、六度波羅蜜を修行する菩薩で、神様は忍辱仙人として示現し忍辱行を修め、四相を離れた修行はすでに五百世に及んでいました。

——生如法師の開示
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金剛経講解.六度波羅蜜も空相

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