離相寂滅分第十四 原文:世尊。是実相者。即是非相。是故如来。説名実相。
釈:須菩提がさらに世尊に申し上げた。世尊よ、如来の説かれる実相とは、いかなる法相も存在しないものであり、三界世間のいかなる法相も具わっておりません。それゆえに如来はこれを実相と名付けられたのです。
「実」とは真実であり、虚妄でなく、実在の意義を表します。これが実在するがゆえに、証得可能であり、無量無辺の諸仏菩薩は既にこれを証得され、かつ無量無辺の福徳と智慧を具えておられます。もしこれが実有でなく、単なる名詞概念や名相に過ぎないならば、証得することに意味はなく、般若の大智慧を生じることも、ましてや仏道を成就することもできません。金剛般若心が実在し、真実の有であり、体性が常存し、作用が真実であるからこそ、衆生は参禅によってこれを証得でき、これによって仏法における大富長者となるのです。
金剛般若心の体が実相であり、体性が真実であるとはいえ、これを世間相と照らし合わせて座に着け、その世間相を尋ね求めることは、まったく得られません。なぜなら、これは世俗の法ではなく、世俗の相でもなく、色相も、声相も、香相も、味相も、触相も、六塵の法相も存在しないからです。したがって、実相とは即ち非相なのです。これを証得しようとするならば、この世俗の六塵相を離れ、七識の覚知心相を離れ、五蘊相を離れ、これらの相を持たない心体を識別しなければなりません。
そしてこれを証得するにも、これらの五蘊世俗相の中で参究しなければなりません。実相と世俗相は密接に結びつき、相依相靠し、互いに離れません。実相は世俗相に依って自らの徳能と利用を顕現し、世俗相は実相に依って初めて存在し運行し、表面的な虚仮の作用を持つことができます。両者は束ねた葦のように、互いに依存し合っているのです。
原文:世尊。我今得聞。如是經典。信解受持。不足為難。若当来世。後五百歳。其有衆生。得聞是経。信解受持。是人則為。第一希有。何以故。此人無我相無人相。無衆生相。無寿者相。
釈:須菩提が申し上げた。世尊よ、私は今、このように甚深な経典を聞くことができ、清浄な信心を生じ、実相を証得し、その中の法理と義趣を深く理解し、その般若の義味を深く領受するだけでなく、さらに心を発してこの経典を受持し流通させようとしています。私が今このようにできることは、さほど難しくはありません。世尊が自ら教え導き加護してくださっているからです。もし未来の末法世の最後の五百年に、衆生がこの経典に遇い、如来蔵の実相法門を聞くことができたならば、その者は稀なる大福徳の人となります。そして清浄信を持ち、金剛心を正しく理解し、金剛経を受持するならば、この人は第一稀有の人となるのです。なぜこの人が第一稀有の人であるのかといえば、この人は既に我相、人相、衆生相、寿者相を離れているからです。
仏法が滅びようとする最後の五百年においては、世間はさらに濁悪となり、衆生の煩悩はより重く善根はさらに乏しくなります。そのような時に、なお衆生が金剛経を聞くことができたならば、その善根福徳は非常に深く、聞いた後は大いに信受し、金剛心を証解し、金剛経を護持し流通させるでしょう。この人は善根が極めて深く、非常に稀有な久修の菩薩なのです。金剛心を証得した後は、五蘊の空理を明らかにし、この人の心中には我相、人相、衆生相、寿者相がなくなります。これらの相は五蘊に依って存在し、五蘊が空となれば四相は即ち消滅し、徳相が顕現して、稀有の聖賢となるのです。
当時、相に普遍的に執着していた世の中にあって、この人が無相の金剛般若心を証得し、内心が四相を離れているならば、この人は稀有で得難い存在です。この人が実相を証得した後は、内心に五陰の我相がなくなり、五陰を我と認めなくなる、つまり我見を断った人となります。同時に、その内面には我相に似た人相も消え去り、人相を真実と認めなくなります。続いてこの人は、我相や人相に似た衆生の五陰相もまた虚妄で真実でないことを知り、内心から衆生相を捨て去ります。さらに進んで、衆生の五陰に依って存在する寿者相も虚妄で真実でないことを観察します。衆生の一期一期の寿命は幻化の五陰に依って存在し、五陰が虚妄である以上、寿命はさらに虚妄不実です。したがって寿者相も消え去るのです。この四相を離れることのできる人は、あの末法世においては、実に甚だ稀有で得難い存在なのです。
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