衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年01月29日    木曜日     第1開示 合計4594開示

釈如願の観行 (vipaśyanā-caryā) 総結(2025-9-20)

釈如願:昨年から今年のこの大半年の修行状況をまとめてみます。私は最初、四念処のうちの観身不浄を修行し、次第に自然と一人ひとりの色身を観るようになりました。観てみると、どんなに若く健やかな色身であってもそのように不浄であり、自分自身も同じように不浄だということが観えました。観ているとき、そばの人が何を話しかけても聞こえず、声がずっとずっと遠く離れているように感じられ、頭がぼんやりとして、夢の中にいるような感覚で、まったく聞く気持ちになれませんでした。一方、脳裏では仏号の声が絶えず響き続け、抑えようにも抑えられませんでした。心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になるほど頭は軽やかになり、法義を観し思惟することも途切れなくなりました。心がひと息つくと念仏 (buddhānusmṛti) の声が連続して絶えず、周りの車の音や家の中の電気製品の音までもが聞こえ、どんな音もみな仏号の声のように感じられました。雑念がなくなればなるほど、脳裏の仏号はいっそうはっきりと聞こえ、抑えようにも抑えられず、念頭を転じることもできませんでした。

今では、たいてい朝目覚めると、まず起き上がって静かにしばらく仏号の声を聞きます。それから起きて顔を洗い歯を磨き、座禅を組みます。顔を洗い歯を磨いている間も、脳裏の仏号の声は絶えず続いており、そのとき私は念頭を転じて色身の不浄を観じます。一人の人間が嬰児として生まれてから児童・少年となり、さらに青年・中年を経て、ついには老年となり、最後はベッドに横たわって死を待つまでのその過程全体を観じます。人が死ぬときは実に苦痛なもので、最後の一口の息が絶えるときには、息を出すだけで吸うことができず、すぐに目を見開いたまま白目をむきます。私の父もまさにそのように逝きました。父が逝くとき、師が法義の中で説かれたように、亀の生きたまま殻を剥がれるかのような苦痛でした。父が死亡した苦痛の過程は深く私の脳裏に刻まれており、座るとこのことを思い出すと、脳裏に父の白骨が浮かび、その白骨がさらに粉々に砕けて消えていくのです。

 それで私は、生如恩師が説かれる法義を精進して修習したいという大願を発しました。以前、聞法を始めたばかりの頃はどう修行してよいかわからず、兄と義姉は私に「わからなければただしっかり念仏すればよい」と言いました。そのときから私は求める心で念仏 (buddhānusmṛti) をしていましたが、何年も念じて yet 心の中では妄想を打ち続けていました。幸いにも生如恩師の法義に出会ってから、ようやく非常に大きな変転があったのです。

一九年、父が足を骨折したため、私は四か月余り介護に行きました。その間、私はよく近くの寺院に行って三宝に親しんでいました。私が最も幸運だったのは、寺院の師が生如師をお招きして衆师兄たちに菩薩戒を受けさせたことで、私も一緒について菩薩戒を受けたことです。私の接引師は「あなたの因縁は実にすばらしい。大善知識に出会って菩薩戒を受けられるのだから」と言いました。生如師から菩薩戒を受けたその日、私は師の加持力の不可思議を感じ、色身が定まって動けなくなり、頭の中はからっぽに広がって、あの感覚は今までに一度もないものでした。

その後、生如師の法義を見さえすれば、家に帰っても香りの匂いを嗅ぐことができました。さらにしばらく経つと、生如師の法義を見るたびに香気を嗅ぐことができ、スマホの中の法義を見るときでさえも香気を嗅ぐことができました。その香りの匂いは線香を焚くあの匂いではなく、言い表せない一種の香気で、この世の中で出会ったことのないものでした。同時に私自身の色身からも香気が出るようになり、左の下の歯の隙間や口の中からも何度か香りが放たれました。

私は朝晩の座禅のとき、いつもまず数回呼吸を観じますが、しばらく観じると知らないうちに忘れてしまい、おのずと法義を観じてしまいます。一つわからないことがあり、師にお伺いしたいのですが、座って法義を観じているときは心がはっきりと清明なのに、なぜ楞厳咒を暗誦すると、誦んでいるうちに何もわからなくなってしまうのでしょうか。まるで半睡半醒のようで、目を開けて誦むと疲れを感じ、目を閉じて誦むと、誦んでいるうちに眠りに落ちたようになり、目が覚めるとまだ誦んでいるのに、どこを誦んでいるのかわからず、また最初から誦み直さなければなりません。このように繰り返して四五回誦んでようやく暗誦できるのですが、本を見ながらならとてもはっきりしています。

評価:法義を観じるときには、六識の協力が必要であり、とりわけ意識が法義を思惟するのに協力しなければなりません。意識は動の状態に属し、前五識を引き連れて一緒に動くので、人は清醒であって昏沈にはなりません。このとき意識の慧が用いられ、慧があれば昏沈せず、慧がなければ昏沈します。ですから、人が昏沈したときには精神を提起して問題を思考すれば、昏沈から醒めてくるのです。楞厳咒を暗誦するとき、咒語に慣れてしまえば、意識は思惟する必要も活動する必要もなくなり、沈静して静まり、こうなると知らず知らずのうちに昏沈に陥りやすくなるか、あるいは定中に入ります。意識は使わなければ弱まり、人は定中にあります。定があるときに無理に六識を活動させれば、当然疲労を感じるでしょう。念仏 (buddhānusmṛti) で定から出た後に、声を出して念仏しても疲れを感じるように、心の中で念仏しても疲れを感じます。咒を誦むのも同じ原理です。

——生如法師の開示
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