離相寂滅分第十四原文:それゆえに何であるか。我相はすなわちこれ非相なり。人相・衆生相・寿者相も、すなわちこれ非相なり。何ゆえにか。一切の諸相を離るれば、すなわち諸仏と名づく。
釈:須菩提が申し上げる:なぜこの人は四相を離れ得るのか。それは我相が実有の相ではなく、人相が実有の相ではなく、衆生相が実有の相ではなく、寿者相もまた実有の相ではないからである。実有の相でないがゆえに、四相を断除できるのである。なぜそう言えるのか。すべての仏は一切の諸相を離れておられるからであり、一切の諸相を離れた者こそが仏と名づけられるのである。
なぜ実相般若心を証得した後、内心に四相がなくなり、四相を離れることができるのか。それは我相が真実の相ではなく、表面上は存在するように見えても、実際には真実ではないからである。実相を証得した者は、如来蔵の働きを観察し、如来蔵がどのように五陰の我を出生するのか、なぜ如来蔵が幻化したものなのかを観る。智慧がさらに深まると、五陰の一切の活動がすべて如来蔵の功能作用であり、五陰自体は何も真実に行っておらず、五陰の法は虚妄不実で、その本質はすべて如来蔵であることを観察するようになる。
例えば魔術師が五陰身を幻化すると、この五陰身には一定の功能作用が現れるが、この五陰身には実体性がなく、その功能作用も真実のものではなく、すべて魔術師の仕業である。また例えば操り人形が舞台で芝居をする場合、人形が舞台上でどのように演技しても、それはすべて人形自身が行ったことではない。したがって人形の一切の活動は幻化されたものであり、実体はなく、本質はすべて裏方の操作者の仕業である。我の五陰活動も同様であり、ゆえに五陰の我相は非相であって真実の相ではない。同様に、これに類する人同分の人相もまた同様に真実の人同分の五陰相ではない。人類が世間でいかに生活し活動し、種々の事業を行っても、真実の五陰活動はなく、その本質はすべて如来蔵性である。ゆえに人相は非相である。
さらに同様に、人相に類する衆生相も虚妄不実であり、表面上は存在するように見えても本質はなく、本質はすべて衆生の如来蔵性である。衆生の五陰活動は、あたかもロボットが作業するようなものであり、ロボット自体に自在性はなく、自主性もない。それは人為的な組み立てと操作を必要とするため、ロボットが真実に何らかの仕事を行うことは不可能であり、すべて設計・製造・操作者の仕業である。ロボットは単に仮の相を現じて人目を惑わすに過ぎない。ゆえに経営者は決してロボットに給料を支払わず、ロボットを賞罰の対象にもしない。なぜなら経営者はロボットが人間ではなく、人間の知恵や能力を持たず、単に人間に利用される道具に過ぎず、仕事はロボットが行ったものではないことを明確に知っているからである。衆生の五陰もこれと同様であり、一切の事業は五陰が行ったものではなく、五陰は単なる道具に過ぎない。したがって衆生相は非相であり、真実ではなく、実有でもない。
では衆生の五陰に依って現れる生命相・寿者相もまた非相であり、真実有ではない。衆生がある時間内の生命活動、例えば呼吸、新陳代謝、飲食排泄などは、表面上は真実有のように見え、真実の意義があるように思われるが、実際にはこれも如来蔵が現出した仮の相であり、如来蔵によって付与されたものであり、本質は如来蔵である。この一期の生命がどれほど長く続こうとも、その生命の本質は如来蔵であり、衆生に真実の生命相はない。ゆえに寿者相は非相である。
なぜ我・人・衆生・寿者の四相が非相、つまり不実の相であると言えるのか。それは法界の実相が一切の相を離れているからである。四相があるということは虚相・仮相・生滅相であって、法界の実相ではなく、真実の相でもない。実相金剛般若の不壊心、すなわち諸仏の法身は一切の相を離れ、四相もなく一切の相もない。ゆえに真の仏には相がなく、真の仏は説法もされないと言われる。一切の相を離れた仏こそが諸仏の法身仏であり、真の意味における仏である。五蘊相を持つ仏は報身仏・応身仏・化身仏であり、法身仏が幻化した仏であって真仏ではない。
なぜ四相が消失し得るのか。それは四相が本来真実に存在する相ではなく、金剛心が幻化した仮の相であるからであり、したがって生滅の性質を持つ空なるものであり、得ることができない。もしそれが実有の相であるならば、空じることはできず、いかに努力してもこれらの相を消失させることはできない。金剛心を証解した後、縁に遇い境に対した時に現前に観察する――我相は金剛心によって生起し、人相は金剛心によって生起し、衆生相は金剛心によって生起し、寿者相もまた金剛心によって生起する。こうして四相は次第に滅尽し、空相の智慧はますます深まっていく。さらに次第に他の法相も空じ去り、一切の法相が空じ尽くされた時、仏道が成就するのである。
ゆえに仏は説かれる:一切の諸相を離るるを、諸仏と名づく。ここでの諸仏には二つの意味がある。一つは五蘊身を持つ応化身仏を指し、もう一つは法身仏を指す。法身仏そのものは無始劫より常に一切の相を離れ、空にして一相もなく、形も相もなく、色声香味触法の相もない。眼耳鼻舌身意をもってしても真の姿を見ることはできない。この時、応化身仏もまた一切の相を離れ、一切の相を空じ、一切の相に執着しない。応化身仏は法身仏と心性が一致し、同様に清浄無為である。これこそが功徳円満した諸仏である。
原文:仏、須菩提に告げたまわく、しかりしかり。もしまた人ありて、この経を得聞して、驚かず怖れず畏れざらん。まさに知るべし、この人ははなはだ希有なりと。
釈:世尊は須菩提に告げられた:その通りである、まことにその通りである。もし人がこの金剛般若波羅蜜経を聞いた後、内心で驚かず、怖れず、畏れないならば、知るべきである。この人はまことに得難く、甚だ希有であり、彼は善根福徳が非常に深厚な人であると。
なぜ世尊はこのように言われたのか。金剛般若波羅蜜経には、すべて大乗の空理が説かれ、衆生に四相を離れ、すべての相を離れ、一切の相を執取しないよう教えているからである。しかし衆生は無始劫より常に四相に執着し、一切の相を掴み取り、捨て離れようとしない。衆生の内心は常に我執が深く、我見が深く、一切の相を有るものと見て、一切の相が空であるとは見ない。
なぜなら衆生は無始劫より常に深く「有」に依存してきた。この時、金剛経の中で空や無が説かれるのを聞けば、心は必ず非常に恐怖し、驚き畏れるであろう。自分が空に落ち、空無になることを恐れ、無始劫よりずっと頼ってきた杖を投げ捨て、頼るもののない状態になることを拒み、それゆえ自分が空っぽになること、自分が存在しなくなることを恐れるのである。それゆえ心に恐怖と畏れが生じる。これは善根と福徳が不足している人、前世での修行の時劫が短かった者に限ってそうなるのである。逆に、この経の中で四相が無いこと、四相を離れることが説かれても、心に怖れ畏れない者は、すでに長い時劫をかけて修行してきた人であり、培ってきた善根がすでに非常に深厚な人である。このような人は金剛経を聞いて驚き怖れるどころか、清浄な信心を生じさせ、さらに四相を離れた金剛般若心を証得することができる。このような人がまことに希有で得難いことは明らかである。
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