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日常法話

2026年01月30日    金曜日     第1開示 合計4595開示

金剛経講解 なぜ我相・人相・衆生相・寿者相は即ち非相なのか?

離相寂滅分第十四原文:所以者何。我相即是非相。人相众生相寿者相。即是非相。何以故。离一切诸相。则名诸佛。

解釈: 須菩提は言う:なぜこの人は四相を無くことができると言うのでしょうか?我相は実有の相ではなく、人相は実有の相ではなく、衆生相は実有の相ではなく、寿者相も実有の相ではありません。実有の相でないならば、四相を断除することができるのです。なぜそう言えるのでしょうか?每一尊の仏はすべて一切諸相を離れているのであり、一切諸相を離れた人こそ、仏と名づけられるからです。

実相般若 (prajñā) 心を証得した後、なぜ内心に四相がなく、四相を離れることができるのでしょうか?我相というのは真実の相ではなく、表面上はあるように見えて、実は真実ではないからです。実相を証得した人は、如来蔵 (tathāgatagarbha) の運作を観察し、如来蔵がどのように五陰 (pañca-skandha) の我を出生しているのか、なぜそれが如来蔵の幻化したものなのかを観察します。智慧がさらに深まると、五陰の一切の活動はすべて如来蔵の功能作用であり、五陰自身は真実に何かをしたのではなく、五陰の法は虚幻不実で、その実質はすべて如来蔵であると観察できるようになります。

たとえば幻術師が五陰身を幻化すると、この五陰身には一定の功能利用がありますが、この五陰身には真実性がなく、その功能利用も真実に有るのではなく、すべて幻術師のなすところです。また、たとえば木偶人(操り人形)が舞台に上がって芝居をしても、この木偶人は舞台上でどのように演じようとも、それ自身のなすことではありません。だから木偶人の一切の活動は幻化であって、そのような事実はなく、実質はすべて舞台裏の操縦者のなすことです。私の五陰の活動もまたこれと同じであり、それゆえ五陰の我相は非相であって、真実の相ではありません。同理として、我に類する人同分の人相もまた同様で、真実の人同分の五陰相はありません。人類が世間でどのように生活し活動し、種々の事業をなそうとも、真実の五陰の活動はなく、その実質はすべて如来蔵性です。それゆえ人相はすなわち非相なのです。

さらに同理として、人相に類する衆生相もまた虚妄不真実であり、表面を見ればあるように見えて、実質は無く、実質はすべて衆生の如来蔵性です。衆生の五陰の活動は、ロボットが働いているのと同じで、ロボット自体は自在ではなく、自主性がなく、人為的な組立と操縦が必要であり、それゆえロボットは真実に何かの仕事をすることはできず、すべて設計・製造・操縦者のなすことであり、ロボットはただ偽の相を現して人の目を欺いているだけです。だから主人は絶対にロボットに給料を払わず、ロボットを褒賞したり懲罰したりすることもありません。主人ははっきり知っているからです。ロボットは人ではなく、人の智慧と能力を持たず、ただ人に利用される道具にすぎず、仕事はそれがしたのではないと。衆生の五陰はまさにこのようであり、一切の事業は五陰がしたのではなく、五陰はただ一つの道具にすぎません。それゆえ衆生相はすなわち非相であり、真実でなく、実有でもありません。

では、衆生の五陰に依って現れる生命相・寿者相もまた非相であり、真実に有るのではありません。衆生の一つの時間帯の内の生命活動、たとえば呼吸、新陳代謝、飲食排泄などは、表面を見れば真実に有るように、真実の意義があるように見えますが、実際には如来蔵が現じた偽相であり、如来蔵が賦与したもので、その本質もまた如来蔵です。この一期の生命はどれほど長い時間であろうとも、その生命の実質は如来蔵であり、衆生には真実の生命相がないので、それゆえ寿者相はすなわち非相なのです。

なぜ我・人・衆生・寿者の四相はすなわち非相であり、真実でない相なのでしょうか?法界実相は一切の相を離れているからです。四相があればそれは虚相・偽相・生滅相 (utpāda-nirodha-lakṣaṇa) であり、法界実相ではなく、真実相でもありません。実相金剛心 (vajra-citta) 般若不壊心、すなわち諸仏の法身仏 (dharma-kāya-buddha) は一切の相を離れ、四相がなく、一切の相もなく、それゆえ真仏は相なしと言われ、真仏は法を説かないとも言われます。一切の相を離れた仏こそ、諸仏の法身仏であり、真の意味での仏です。五蘊相のある仏は、報身仏 (saṃbhoga-kāya-buddha)、応身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha)、化身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha) であり、法身仏が幻化した仏であって、真仏ではありません。

なぜ四相は消失することができるのでしょうか?四相はもともと真実に存在する相ではなく、金剛心 (vajra-citta) が幻化した偽相であり、それゆえ生滅の性質であり、空であって、得るべからざるものだからです。もし実有の相であれば、それは空することのできないものであり、どれほど努力してもこれらの相を消失させて見えなくすることはできません。金剛心を証解した後、縁に遇い境に対する時に現前観察して、我相は金剛心が生じさせたものであり、人相は金剛心が生じさせたものであり、衆生相は金剛心が生じさせたものであり、寿者相も金剛心が生じさせたものであると観察すると、このようにして四相は次第に滅し尽くされ、空相の智慧はますます深まっていきます。さらに次第に他の法相をも空していき、一切の法相が空し尽くされたとき、仏道を成就するのです。

だから仏は説かれます。一切諸相を離れることを、諸仏と名づけると。ここでの諸仏には二つの意味があります。一つは五蘊身のある応化身仏を指し、もう一つは法身仏を指します。法身仏はそれ自体、無始劫以来ずっと一切の相を離れ、空にして一相もなく、形もなく相もなく、色声香味触法の相もなく、眼耳鼻舌身意をもってしては真の姿を見ることはできません。このとき応化身仏もまた一切の相を離れ、一切の相を空し、一切の相に著わらず、応化身仏と法身仏の心性は一致し、同じく清浄 (viśuddha/pariśuddha) 無為であって、こそ功徳円満の諸仏なのです。

原文:佛告须菩提。如是如是。若复有人。得闻是经。不惊不怖不畏。当知是人。甚为希有。

解釈: 世尊は須菩提に告げられる:その通りです、まことにその通りです。もし人がこの金剛般若波羅蜜経を聞いた後、内心に驚かず、恐れず、また畏れなければ、この人はまことに得がたく、稀有な人であることを知るべきです。その人は善根と福徳が非常に深い人なのです。

なぜ世尊はこのように言われたのでしょうか?金剛般若波羅蜜経の中は、すべて大乗の空理を説いており、衆生に四相を離れ、すべての相を離れ、一切の相を執取 (upādāna) しないことを教えているからです。ところが衆生は無始劫以来、ずっと四相を執著し、一切の相をつかみ取ろうとし、捨離しようとしません。衆生の内心は我執が深重で、我見 (ātma-dṛṣṭi) が深重であり、すべての相を有と見て、一切の相を空と見ないのです。

衆生は無始劫以来ずっと深く「有」に依り頼んでいるので、ここで金剛経の中に説かれる空・無を聞くと、心は必ず非常に恐れ、驚き畏れ、自分が空に落ちて空無になってしまうことを恐れ、無始劫以来ずっと依り頼んできた杖を捨てることを肯ぜず、依り頼むもののない状態になることを肯ぜず、それゆえ自分が空っぽになってしまうこと、自分が存在しなくなってしまうことを恐れます。だからこそ心に恐懼と怖畏が生じるのです。これは善根と福徳の不足した人で、前世の修行の時劫が短かったからこそ、このようになるのです。逆に、この経の中に説かれる無四相・離四相を聞いても心に怖畏がない人は、すでに久しい時劫を修行してきた人であり、植え付けた善根がすでに非常に深い人です。このような人は金剛経を聞いて、驚き怖れるだけでなく、清浄 (viśuddha/pariśuddha) な信心を生起させ、さらに離四相の金剛般若心を証得することができます。このような人がまことに稀有難得であることが分かるのです。


——生如法師の開示
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