相とは、三界世間における一切の万法、一切の世俗の相を指します。金剛経におけるこの相は、第一に四相(我相・人相・衆生相・寿者相)を指し、第二に仏の三十二相を指し、第三に色声香味触法の六塵の相、および三界世間の一切の相を指します。離とは、離れる、対応しない、具備しない、存在しないという意味です。では、いったい誰がこれらの相から離れ、これらの相に対応せず、これらの相を持たないのでしょうか。明らかに、金剛般若の心体と諸仏のみです。
金剛心はこれらの相から離れ、これらの相に対応しないがゆえに、寂滅なのです。もしこれらの相から離れなければ、能と所の対待が生じ、能知と所知が存在し、六塵の境界に対して受と想が生じます。そうなれば七識心と同じく、喧噪の境界にあり、心は寂止できず、寂滅の心とはならず、もはや涅槃の心体とは呼べません。
寂滅とは、自ら色を持たず、色を見ないため心が寂滅であること。自ら音を発せず、音を聞かないため心が寂滅であること。自ら香りを放たず、香りを嗅がないため寂滅であること。自ら味塵を持たず、味わわないため心が寂滅であること。自ら触塵を持たず、触塵を受け取らないため心が寂滅であること。自ら法塵を持たず、法塵を分別・受領しないため心が寂滅であることです。金剛心は六塵が如何に喧噪であろうと、それ自体が寂滅の状態にあり、阿羅漢が無余涅槃の境界にある寂滅の状態と同じです。ゆえにこの題目は、金剛心の体性を顕かにしているのです。
原文:爾時須菩提。聞說是経。深解義趣。涕泪悲泣。而白佛言。希有世尊。仏説如是。甚深経典。我从昔来。所得慧眼。未曾得聞。如是之経。
釈:この時、須菩提は仏がこの金剛般若波羅蜜経を説かれた後、深くこの金剛経の全ての法理と義趣を悟りました。須菩提はこの経の義理を深く証解したため、悲喜交々となり、感激の涙を流して世尊にこう申し上げました。「稀有なる世尊よ、あなたはこのように理趣甚深な経典を説かれた。私は古来より修得した慧眼を持ちながら、未だかつてこのように義理甚深な経典を聞いたことがありません」。
深く義趣を解したと言うことは、須菩提が金剛経の義理を単に理解しただけでなく、深く証得したことを示しています。証悟には浅深さまざまな段階があり、浅いものは十住位の証悟内容で如来蔵の総相智を証得し、やや深いものは如来蔵の別相智を証得します。菩薩の階位は十行位と十回向位にあり、さらに深く悟れば道種智を備えます。ここでは須菩提が十行位を証悟したのか、十回向位の別相智を証悟したのかは示されていませんが、金剛経における如来蔵の宗旨を深く証解したことは明らかであり、浅い悟りではないのです。
文中の慧眼とは、智慧の眼を持つことを指し、地前の菩薩や阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)が具足する智慧の眼であり、まだ入地の法眼には至っていません。智慧には小乗の智慧と大乗般若・唯識の智慧が含まれます。小乗は我見を断つことから慧眼を持ち、大乗は明心することから慧眼を持ち、第十回向位まで続き、その後は法眼を持ちます。須菩提は前世から慧眼を持っていたということは、前世で少なくとも小乗の果位を証得していたことを示し、今世では母胎にあってすでに諸法空寂を知り、隔陰の謎がありませんでした。彼は仏弟子の中で解空第一であり、須菩提が仏道で修行したのは少なくとも無数劫にわたり、善根が非常に厚かったのです。須菩提のように久劫修行した善根を持ちながらも、金剛経のような甚深な経典を聞いたことがなかったということは、金剛経が稀有で遇い難い甚深の法宝であることを示しています。もし善根・福德が不足していれば、このような甚深な般若経典には遇えません。善根が浅く、福德が薄ければ、聞いた後に金剛般若心を証得することはさらに困難です。
原文:世尊。若復有人。得聞是経。信心清浄。則生実相。当知是人。成就第一。希有功德。
釈:須菩提は言いました。「世尊よ、もしこの経典を聞いた後、疑いなく信じ、清浄な信心を生じ、衆生の身中にこの金剛不壊の心が常住することを信受できれば、この金剛不壊の心を証得し、実相の智慧を生じることができます。一切法の源が金剛不壊の心であること、真心如来蔵が法界実相であり真実不虚であること、その他一切の法は虚相であることを知るのです。そうすれば、この人が第一稀有の功徳を成就したことを知るべきです」。
この人の福德と智慧は、ともに世の中で第一稀有のものです。これ以降、この人の福德は次第に増大し、智慧はますます深く広大無辺となり、無量の衆生を広く利益し、ついには究竟して仏となることができます。ゆえに般若実相心を証悟することの福德は不可思議であり、その智慧は不可思議であり、世の中のいかなる法も及ぶものではありません。たとえ世の中の無量の財宝を持っていても、この福德とは比べものにならず、たとえ世の中の一切の技芸に精通する巧慧があっても、この般若実相の智とは比べものになりません。世の中のこれらの世俗の福德と智慧は、すべて生滅変異の法であり、頼りになるものではなく、享受する時にも煩悩を具足しています。衆生はこの煩悩によって六道に流転し、依然として乞食のように乞食の流浪生活を送り、苦悩が絶えません。ただ不生不滅の般若実相心を証悟してこそ、漸く諸煩悩を滅し、心に清凉を得て、心はますます清浄に、ますます豊かになっていくのです。
明らかに、ここで言う実相とは、経典を聞いた人が信心清浄の後に生じる智慧の認識であり、実証智慧です。証得した実相の智慧は実相そのものではなく、実相そのものの智慧は不生不滅・不増不減・不変異ですが、実相を認識する智慧には生滅増減があります。ゆえにそれは実相ではなく、本来からある真実の相ではなく、仮に実相と名付けており、実相智慧、すなわち実相を証得して生じた智慧と呼ぶべきものです。
そして本来からある実相は、形も相もなく、いかなる世俗の法相も、いかなる六塵の境界相もなく、常に無相をもって人に示します。ゆえにこれも非相であり、この非相の金剛心を実相と名付けて、この名によって金剛心の真実性・不生不滅性を示し、衆生に識別・伝誦させるのです。
この金剛経を聞いた後、清浄な信心を持ち、この経を浄信し、金剛心を浄信し、かつ金剛心を証得することは、確かに第一稀有の功徳を成就したことであり、確かに稀有難得です。この人は善根が極めて厚いのです。実証した金剛心の相も破れ、生じた実相智慧の相も破れれば、仏法の修証を実と執着せず、我慢を生じず、一切の相を遣り、内心が空浄・寂静となれば、速やかに涅槃の彼岸に到達するでしょう。
4
+1