衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年03月08日    金曜日     第1 回の開示 合計1318回の開示

ブラックボックスの世界(四十三)

六根は内根と外根に分かれ、有色根と無色根に分類されます。前五根は有色根であり、地水火風の四大種子によって構成された形態を持つ物質的な色根です。意根は無色根であり、四大種子によって構成されず、物質的な色法に属さず、これは心であり識であり、心の分別・識別作用を有します。五根は浮塵根と勝義根を含み、浮塵根とは外根であり身体表面に浮かび他者から視認可能です。勝義根とは内根であり後頭部に位置し他者には不可視で天眼のみが認知します。五根を表面に重点を置く場合は浮塵根を指し勝義根を含みません。五根の全ての機能的本性を論じる場合には勝義根を含みます。また勝義根に特化した用例もあり、状況に応じて解釈されます。後頭部に位置する勝義根は内塵との接触を司り、如来蔵が識を生起させます。

六根が六塵に触れる時、如来蔵は六識を生じ、根・塵・識の三者和合によって触が成立し、六識は内六塵を了別し、衆生は内六塵の内実を知覚します。この分別了知が完成するのです。衆生が了知する対象は内塵の内相分であり外塵の外相分ではないため、衆生が認知する六塵は虚妄です。内塵は幻影であり、外塵は内塵に比すれば真実のように見えますが、これも如来蔵が幻化したものであり同様に実体を有しません。真実の真とは不生不滅の真心如来蔵のみであり、これ以外は全て仮の存在、幻化の如き実体なきものです。

衆生は永遠に外塵に接触できず、虚相と仮相の中で生存しており、病める目で虚空の花を見るが如き状態です。内塵と外塵の存在有無については、衆生に眼病あれば空中の花を見、衆生の心に病障あれば一切の相を実在と認識します。衆生の心に病なき時は空中の花を見ず、ただ如来蔵性を観ます。例えば我々の五陰に動転施為あれど、これらの仮相を排除せず存在を認めますが、この存在は仮の有であり、これらの法は現時点で体得し難く、証悟後に観行の智慧が発起すれば理解可能となります。これは親証の現量境界であり、他人の解説では体得できません。理解の問題ではなく実修によってのみ自証可能であり、理解のみでは不確かで生死の問題を解決し得ないからです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

比量が正しくとも現量の実証にあらず

次の記事 次の記事

三昧の境地は独影境です

ページのトップへ戻る