釈如願:私はよくこういう状態になります。歩いていても座っていても、歯を磨いていても顔を洗っていても、あるいは念仏を唱え真言を誦していても、無意識に目を閉じてしまいます。目を開けていると、とても疲れて辛くて耐えられず、心身もコントロールできません。目を閉じると、目の前に真っ白で明るい通路が現れ、遮るものは何もありません。時々起きて忙しく動き回ろうとする時、目を開けると正しい方向がわからなくなり、小さな空間に閉じ込められたように感じ、まるで虚妄の障害物に塞がれているようです。
評釈:これは禅定が深まったためです。意根が内面の世界に留まり、六塵の境界を認識して対応することを望まないので、六根が六塵に触れると、六識は疲労を感じるのです。意根と六識は寂静に適応し、寂静の中では心地よく感じますが、目を開けて色を見ると慣れません。神通力がある時は、目を閉じていても色を見るのに支障はありません。六識を閉ざす時間が長くなると神通力が現れ、目を開けていると逆に色を見るのを妨げる可能性があります。六識が六塵に依存しない時は寂静で心地よく感じますが、六識を使って六塵を認識すると煩わしく感じられ、多くをなすより少なく、なさない方が良いのです。
ところが世間の人は特に六識に依存しています。もし六識が六塵を認識しなくなったら、寂しくて死んでしまいそうで、生きていけないと感じてしまいます。修道者と世間の人は完全に正反対です。この二者が一緒にいると、まるで仇同士が一つの部屋にいるようで、お互いに居心地が悪いものです。ですから、私に会った人の中には、私の生活習慣を見て非常に不満を持つ人もいます。私は世俗の弟子に合わせるために、無理に習慣を変えざるを得なかったのですが、それでも弟子たちに教化されて幾分か戻され、それでもなお満足してもらえません。同じ道を歩む者でないなら、関わりを少なくした方が良いでしょう。
15
+1