その時、須菩提が仏に申し上げた。世尊よ、この経を何と名づけるべきでしょうか。我らはどのように奉持すべきでしょうか。仏は須菩提に告げられた。この経は『金剛般若波羅蜜』と名づける。この名をもって、汝らはよく奉持すべきである。
釈:この時、須菩提が仏に申し上げた。世尊よ、いかにしてこの経典を命名すべきでしょうか。我々はどのように奉行し受持すべきでしょうか。仏は須菩提に告げられた。この経は『金剛般若波羅蜜』と呼ばれる。この名は金剛経全体を概括しているため、汝らはよくその中の義理を理解し、その後貫通して受持すべきである。
須菩提は世尊にこの経典の命名を請い、如何に奉行受持すべきかを尋ねた。世尊は言われた。この経は金剛般若波羅蜜と呼ばれる。この名の意味を全て明白に悟ってこそ、初めて奉行受持できる。経題の意味は既に文章の冒頭で述べた通り、金剛は世の中で最も堅固な宝であり、何ものもこれを破壊できず、逆にそれは一切を破壊する。これを以て我々の真心である如来蔵を喩える。この心は如何なる者が如何なる力を用いても、永遠に破壊する方法がなく、これ以外の世間の一切の法は、全てこれによって変生されたものであり、生住異滅の性質を有し、全ては頼りにならない法である。
何故に般若波羅蜜もまた空相なのか。
その時、須菩提が仏に申し上げた。世尊よ、この経を何と名づけるべきでしょうか。我らはどのように奉持すべきでしょうか。仏は須菩提に告げられた。この経は『金剛般若波羅蜜』と名づける。この名をもって、汝らはよく奉持すべきである。
釈:何故にそう言うのか。須菩提よ、仏が衆生に教えた大乗法である般若波羅蜜は、即ち実有の般若波羅蜜ではなく、真に般若波羅蜜というものが存在するわけではない。仮に般若波羅蜜と名づけられたものであり、その法相もまた空である。
般若波羅蜜はインド語であり、中国語に翻訳すると大智慧で彼岸に到るという意味である。金剛心体あるいは般若心体が生死の此岸を持たない涅槃の状態を喩えている。此岸と彼岸は共に一種の状態であり、仮の名であって実体ではなく、実相でもない。実質的な此岸と彼岸の相は存在しない。故に般若波羅蜜は空相であり、仮に般若波羅蜜と名づけられている。同様に、六度波羅蜜もまた空相であり、実体がなく実相ではない。波羅蜜は仮の名であり、六度にも実質的な体と相はなく、金剛心が幻化した生滅変異の空相である。岸に到れば即ち船を捨てる。成仏後は修行が円満し、もはや波羅蜜法を修める必要はない。
凡そ金剛心体によって初めて成立し存在する法は、全て幻化した空相と仮相であり、実質と自在の体性を持たない。金剛心体から般若波羅蜜経が演繹され、衆生は般若波羅蜜に依って修行して初めて仏道を成じる。成仏後は、般若波羅蜜経を捨て去り、再び修学する必要はなく、再び依拠する必要もない。般若波羅蜜経の出現は、諸仏が衆生の成熟した修学の因縁に依って宣説したものであり、もし因縁が備わらなければ、諸仏も般若波羅蜜経を説かず、この経も理由なく衆生の前に出現することはない。従って般若波羅蜜経は金剛心体性の詮釈と注釈であり、金剛心体そのものではない。故に真実ではなく仮相である。そして経中で詮釈された義理は、般若波羅蜜と名づけられるが、金剛心体そのものを代表するものではない。故にこれも真実ではなく空相であり、この種の空相のために、般若波羅蜜と名づけられている。
般若の意味は大智慧であり、主に真心である如来蔵が先天に有する智慧を指す。例えば、それが一切の法を変生できる智慧、生死に入らずに生滅相を現じる智慧、一切の法を生じながら一切の法と混ざらない智慧、及びその種々の中道で両辺に執着しない智慧などである。これらの智慧は七識心の智慧とは全く異なる。七識心の智慧は世間法に対応するものであり、たとえ我見を断つ智慧、如来蔵を証悟する智慧、如来蔵の種子功能を知る智慧、及び仏の一切種智の智慧でさえも、全て後天に修行によって生起したものであり、本具の本有智慧ではない。如来蔵の本有智慧とは大きな違いがある。従って、般若という智慧は依然として真心である如来蔵の智慧を指す。五陰身には生死があり、万法億万の法には全て生滅があり、全て保証されない。ただ真心である如来蔵だけが生滅がなく、生死の此岸に存在せず、便宜的に彼岸であると言われる。金剛経全体の経題はこれらの義理を含んでおり、証得して初めて真に貫通でき、奉行受持できるようになる。
仏は般若波羅蜜は即ち般若波羅蜜にあらず、これを般若波羅蜜と名づけると言われた。般若波羅蜜という大智慧で彼岸に到るという名称を用いて、真心である如来蔵の体性を概括している。如来蔵は実有真実であるが、その名称は実有真実ではなく、世尊がこれに付けた仮の名である。その仮名は無量にあり、全て如来蔵の体性を体現するために用いられる。六祖は言われた。我に一物あり、頭なく尾なく、名なく字なく、背なく面なし。諸人、識るや否や。神会は答えた。是れ諸仏の本源なり。六祖は言われた。汝に名なく字なしと道うに、汝はなお本源仏性と呼ぶ。この時は機鋒を用いて諸仏の本源を暗示すべきであり、名を言うべきではない。名はそれではない。万法は皆一つの名に過ぎず、実有ではない。如来蔵は生滅する万法に属さないため、実有の法である。
その時、須菩提が仏に申し上げた。世尊よ、この経を何と名づけるべきでしょうか。我らはどのように奉持すべきでしょうか。仏は須菩提に告げられた。この経は『金剛般若波羅蜜』と名づける。この名をもって、汝らはよく奉持すべきである。
釈:須菩提よ、汝はどう思うか。如来は何か説いた法があるか。須菩提は仏に申し上げた。世尊よ、如来は説くところなし。如来は何も説いたことはない。
世尊は明らかに四十九年間仏法を説いたのに、何故また説いた法はないと言うのか。仏には三身がある。法身、報身、応化身である。法身仏とは仏の金剛心であり、それは形なく相なく、眼耳鼻舌身意なく、五蘊十八界がない。五蘊身がない以上、説法できない。一方、報身仏と応化身仏には五蘊身があり、十八界があるため、心口を用いて説法できる。報身仏は色界の第十八天の天宮にいまし、地上の大菩薩に道種智の修行内容を説く。
応身仏は衆生の求法の願いを満たすため、衆生の根基に応じて仏身を現じ衆生を度し、仏法を宣説する。化身仏は無数の分身を十方世界に化して衆生を度し、仏法を演説する。しかし報身仏と応化身仏は法身仏によって変現したものであり、法身仏を離れれば報身仏も応化身仏も存在しない。後の二種の仏が説法する時は法身仏を離れられない。故に仏が説法する時は、説法する仏と説法しない仏が存在し、説法する仏は説法しない仏を離れられない。故に釈迦仏は四十九年間法を説いたが、私は一字も説いたことがないと言う。ここでの如来は法身仏を指し、法身仏は説法しない。三身仏の概念義涵を理解すれば、仏に説法があるか否かが分かる。従って、仏に説法があると言うのは仏を謗ることであり、仏に説法がないと言うのも仏を謗ることである。
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