釈如願:娘の家にいた最初の二年間は、何をやっても上手くいかず、外出して用事を済ませるのが怖くて、間違えるのが怖くて、人と接するのも怖かったのを覚えています。普段は滅多に外出せず、用事がある時は無理に気力を振り絞って出かけていました。時々心身に何か感じることがあっても、気に留めず、全ての境界は虚偽で実体がないように感じていました。何度か明らかに身体が自分でコントロールできないような空虚な感覚に襲われ、何をしていても心が反応せず、行動するたびに失敗ばかりしていました。
ある時、娘に赤ちゃんを抱くよう言われたのですが、その時は身体の存在を全く感じられず、気を張って行動すればするほど失敗し、赤ちゃんをベビーベッドに寝かせようとした瞬間、ぼんやりとしてしまい、身体の感覚も方向感覚も失ってしまいました。丁度その時娘婿が赤ちゃんが一人でベッドを這っているのを見つけ、慌てて駆け寄り「これは危ない」と抱き上げたので、ようやく我に返りました。一瞬気を抜いただけで頭が真っ白になり、身体の感覚を忘れてしまったのです。今では長い間法義を拝読せず、頭に浮かぶ馴染み深い白骨不浄観ばかりを観じています。これらの法を思惟しなくても消えず、まるで頭の中で仏号が否応なく響き続けるように、法義も自然と現れてくるのです。
つい先日も、実家からちょっとした心配事を相談されましたが、返事もせず気にも留めませんでした。時には眠っている最中にも仏法について考え込んで目が覚め、目覚めた時には「幻を知り幻を離れる」と無意識に呟いていることもありました。その時ははっきり目覚めてから少し不思議に思いました。なぜ突然この言葉が出てきたのだろうと。まだその状況を考えている間もなく、続けて「八つの識」という三文字が飛び出してきたのです。私はその意味が全く分かりませんでした。「幻を知り幻を離れる」の意味は何となく理解できても、「八つの識」とは何かがどうしても分からず困り果てました。考えないようにすればするほど頭から離れず、私の意根の現量観察の智慧が不足しているため、うまく言葉に表せなかったのです。
評釈:三昧の境界において、頭の中にどんな法が浮かんでも、それは全て意根の念いや思考です。仏法が浮かぶということは、意根がこれらの法を参究している証であり、理解している場合もあれば、理解していない場合もあります。理解していない場合は独頭意識に伝え、独頭意識と意根自身に参究させるのです。参究して理解が深まれば、意識も意根もその法に対して明らかになります。これが一つの法を証悟する過程と原理なのです。
言語文字で表現するのは意識の機能作用であって、意根の現量観察の智慧ではありません。意識の学習が不十分で知識が不足していたり、言語表現の基礎が脆弱だったりすると、表現が不明瞭になり、うまく説明できません。意識が絶えず関連する知識を学び、それらの知識を習得して初めて、言語と文字の基礎が備わり、流暢に表現できるようになり、誰もが理解できるようになるのです。これは大菩薩として備えるべき素養と技能であり、自身の生存と衆生を救済するために不可欠なものです。
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