衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年01月05日    月曜日     第1開示 合計4571開示

意根と意識念頭の区別

釈如愿:私の場合、目が覚めたばかりで意識心がまだ物事を分別しようとしていない時、つまり脳裏に仏号の声が生じた直後に、はっきりと念仏の声を聞くことがよくあります。その時はまだ前五識が現れて分別していません。私は禅定の中で念仏しているため、意根に定があるからこそ、家族全員(比喩:諸々の妄念)が攀縁せず、作為を起こさないように制御できるのです。睡眠中も全て意根が攀縁しており、独頭意識が夢境を了別するのは不明瞭で、ただぼんやりとした感覚しかありません。この妄想心が良いことを念じると良い光景が現れ、これは悪いことではないかと念じが変わると、即座に悪いことが現れます。これが独頭意識の心念が境を転ずる現象でしょうか?独頭意識が夢境から覚めていない時、それは意根に随って攀縁し夢境を了別しているため、前五識は存在しないのではないでしょうか?

解説:分別と了別には違いがあり、安易に混同してはいけません。了別とは識心が最初に生じた際、受動的に塵境に対応することを指し、「了」は明らかにする、即ち大まかに知るという意味です。分別は了別の後に行われ、塵境に対して能動的に弁別し、心思は微細で智慧が加わり、より深い層に属します。目が覚めたばかりの時、意識が朦朧と法塵境に対応している状態は、了別と呼ぶべきであり、まだ分別する能力も、打算する能力もありません。打算があるとすれば、それは全て意根の打算です。前五識が現れるやいなや、独頭意識は五俱意識に転じ、五識と共に六塵を了別します。

目が覚めたばかりの時、独頭意識が念仏の声を聞くのは、これが意根による念仏です。意根は一晩中念仏を続けていた可能性があり、意識がない間は意識はそれを知らず、目が覚めて初めて知るため、念仏の声がたった今生じたと誤解してしまうのです。実際はそうではありません。意根による念仏は無音であり、念仏を思う心(念仏の心思)が存在し、心が仏に満たされている状態です。意識が了別した後、意根の無音の念仏を有音の念仏へと転換します。つまり、意識が意根の念仏を解読して表出したのです。実際に意識が聞く念仏は無音であり、それを解読・了別する際に、念仏は意識に対応する有音の法塵へと変容します。

夢境において、夢を変換し得るのは必ず意根です。独頭意識の心思は全て受動的に意根に随って転じ、意根に操られており、境を転ずることはできません。従って、夢の中で意根に善き念があれば境界は善く変じ、意根に悪しき念があれば境界は悪く変わります。独頭意識に念があっても、それは意根に随順して受動的に生じた念であり、夢境を変換することはできず、通常は夢境を了別する作用を担っています。

——生如法師の開示
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