禅定と智慧が不十分な修行者は比量と研究の方法を用いる。定力の強い者は参究を好み、黄河に至らざれば心死せず、大智慧者は完全に現量で証する。特に一切種智を具えた仏世尊においては、一切法は現量で知られ、比対・比較・想像・揣測を用いず、言語は全て肯定表現であり、猶予がない。禅定を修めない者、観行の智慧なき者、参究できぬ者のみが比量推論の方法を用い、この方法で仏法を証得できると考えるが、実際は証得ではなく推測に類する。
比量が如何に正しくとも、推論が如何に正確でも、現量ではなく実証ではない。実証は即座に現前し、眼識の見では無くとも、意識の見も即座の現見であり、推論と比較を要しない。これが現量の意味である。
意識の聡明な者は皆論理的思惟推論が可能だが、実証に代わることはできない。五陰十八界の苦空無常無我は即座に感知されねばならず、比対も推論も許されない。比対と推論の反応は一歩遅れ、意識の強制注入と牽制作用によってやむを得ずそうなる。一旦意識機能が弱まるか、意識が消失すれば、牽制作用が無くなり、五陰十八界が苦空無常無我であることを知り得ず、これでは解脱の功徳受用がなく、中有身は力を借りられず、後世に功徳受用を持つことは更にできない。
同様に大乗法において、如来蔵の作動は即座に観察されねばならず、比対も論理推論も許されない。知るべきは即座に知り、現に意識を用いて考慮分析してはならない。これが現量ではない。即座に知られる法のみが実証であり、効果があり、感応があり、利益を得、解脱の功徳受用がある。即座に知る法において、意根は必ず知っており、意識の助けを要しない。意根が知らぬ場合にのみ、意識の論理推論と分析比対推測を用いる。
意根の実証は直観的体得に類する。禅定なき者に直観的体得はなく、驚愕の時にも短い禅定がある。七覚分は仏法実証の必由の路であり、その中の喜覚分・猗覚分・定覚分は実際の修行において次第に現れ、全て禅定に関わり、次第禅定である。この過程なき者は実証を語るべからず、仏陀の説を信じ、仏語に誤り無きを信ぜよ。而して意識の分別思惟は意根の直観的体得を導き、功徳も甚だ大きい。修行過程において、二つの覚知性は共に離れ難く、共に重要である。
但し意識機能が過度に強大化すれば、意根の思量性を覆い隠し、解悟は容易だが実証は極めて困難となる。故に過去の禅宗祖師は意識の過活動を戒め、禅定中の死坐して観行思惟を起さぬことも否定した。意識の作用を適切に保つは甚だ難しい。譬えば決まった仕事を二人でする時、甲が多くすれば乙は少なくなる、原理は即ち此の如し。意識が強大ならば生存中は意識に依拠できるが、一旦意識活動が弱まるか、意識が滅すれば、意根は依る所無く、その時は全く意根に頼る。衆人思え、臨終と後世において意根が強大化せずば、如何なる様か。意識強大の目的と結果は意根を強大化させるべきであり、意根が強大でなければ将来如何にせん。意根が柔弱ならば我々も柔弱なり。意根が一旦非常に強大化すれば、意識を用いずとも作動可能、例えば六根互用、六根互通の如し。
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