衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2019年03月07日    木曜日     第4 回の開示 合計1316回の開示

現量、比量、非量とは何ですか

現量とは、法を現前に観察し思惟することができ、法の真実の相を見、法の現在の状態を確認し、真実の相を歪めないことを指します。もし法の現前の状態を如実に見ることができず、法の真実の相を如実に観察できないならば、他の方法を取ることになります。例えば参照物と比較対照する方法を取るのは比量であり、正しい結果を比較できるかもしれず、あるいは正しい結果を比較できないかもしれません。比量が正しくなる前提条件は、参照物として用いる法が正確無謬であることであり、そうすれば比較した結果の正確性は高まります。既存の参照物があれば、細かな思惟は不要で、必要な智慧は多くなく、必要な定力も深くなく、禅定がなくても結果を比較できますが、正確かどうかは定かではありません。

もし現量の智慧が不足しているならば、別の方法を取ることができます。それは想像、幻想、憶測であり、一定の思考経路に沿うことも、完全に筋道や論理のない空想に耽ることも可能です。これが非量です。非量は証拠がない状況での思惟であり、根拠のない想像が多く、証拠を収集・掌握する能力がないためにやむを得ず行うものです。これを見れば、非量に必要な智慧はさらに浅く、禅定も不要であることが分かります。ここから現量には相当の定力と智慧が必要であり、その智慧は非常に貴重で信頼に値し、仏法を実証するのは現量の智慧によるものだと言えます。

非量においては、証拠がなく意識の想像に頼るため、空を舞う凧のようなものです。糸で繋がれているかもしれず、糸が無いかもしれません。この中で、意根は力を発揮できず、意根の智慧は意識のように自由に飛び回って憶測することができません。意識が何を考えようと、意根は確認できず、したがって実証することはできませんが、偶然の一致や幸運は否定できません。このように意根の智慧は成長せず、意識の智慧のみが成長します。再び類似しない問題に遭遇した時、応用が利かず、意識は再び非量を繰り返すことになり、その智慧の成長は非常に限定的であることが分かります。

比量においては、二つの事理を比較する際、主に意識の推論と排比作用に頼り、意根の智慧はほとんど力を発揮できません。意根は傍観するしかなく、その結果を真に確認することはできませんが、比量が正しい結果を出す可能性は否定できません。しかし意根の疑念を解決することはできず、意根の智慧は成長せず、意識の智慧のみが成長します。

例えば大樹の高さを知るには、三つの方法があります。現量による観察、比量、非量です。非量の方法を取るとは、根拠のない思惟・想像・推測であり、樹木の高さに関する経験がなく、比較の仕方も分からず、ましてや如実観察もできないため、結果は推して知るべく、自分自身でも確認できないでしょう。比量の方法を取るとは、近くの電柱や高層建築、山体と比較して概算値を出すことです。その結果は半ば確信半ば不確信で、表面的には自信があるように見えても、厳密に問われたり、より確かな証拠で否定されたりすれば、自信を失います。もちろん他者がこの結果に同意すれば、多少自信が増すかもしれません。

これ以外の方法として現量観察がありますが、これは非常に困難です。多くの証拠資料と豊富な経験、鋭敏で正確な観察力、緻密な思考、正確なデータが必要です。豊富な経験と大量の正確なデータ資料を得るには、並大抵ではない努力を要し、相当期間の探求を経なければなりません。その苦労は常人には及ばず、観察時の定力も常人には及ばず、最終的に得られる智慧も同様に常人には及びません。

データ収集の探求過程で、意根は常に観察し、徐々に影響を受けます。意識が結論を出した時、非常に説得力があり、意根が自ら検討すれば、理屈と証拠があるため確認します。意根は智慧が浅く分析能力がないため、証拠が十分なものを信じ、現量の境界を信じます。実はこの結果も意根自らが導き出したものであり、全てのデータが目の前にある現実です。意根自らが思惟を起こし、結論を出します。自ら出した結論こそが確信を揺るがさず、当然自らが最も信受するもので、他人がどう言おうと自らが果敢に受け入れ、議論の余地もなく、自らの結論を覆すことも容易ではありません。

現量観察がこれほど困難であるため、短期的効果を求め苦労を厭う者は長期にわたる探求を好まず、修行期間の短い者は定慧ともに不足し、十分な経験を蓄積できず、現量観察に相応することができません。したがって比量や非量を好み、憶測や比較を好む者が多くいます。これらの方法は比較的労力が少なく、時間もかからず、定力や慧力もあまり必要とせずに結果が出るからです。これは非常に楽であり、これらの人々は結果のみを求め、中間の過程は不要とします。

しかしまさに中間の過程が最も重要です。これは証拠を抽出する過程であり、意根を陶冶する過程であり、様々な煩悩心を調伏する過程であり、量変から質変への過程です。この過程がなければ質変は起こらず、自心の煩悩は永遠に調伏・変化しません。そこで一部の人々は至る所で結果を探し求め、苦労する参究の過程を経ずに容易に果実を得ようとしますが、この果実は自らのものではなく享受できず、自らは依然として貧者のままであり、妄りに法王を名乗れば誅殺されるのみで、その結果は恐ろしいものとなります。

ここまで述べると、ある者は問うかもしれません。「長々話したが、結局現量観察とは何か明確に説明していない」と。しかし申し上げます。他者が説く現量観察を自分が知るのは比量であり、もはや現量ではありません。真の現量は自らが観察し認証する必要があります。だから探り出した結果や推測した結果は非常に信頼できず、現量観察を行った者から得た結果でさえ自らのものではなく、比量で結果を出した者から得た結果なら尚更自らのものではなく、さらに信頼できません。結果を伝播し探求することを繰り返せば、その結果は恐ろしいものとなります。ここに苦労を厭う者たちに厳重に警告します。自ら参究して初めて自ら果実を得、自在に用いることができます。そうでなければ苦果となり、この苦果は完全に自らが単独で受用せねばならず、因果は虚しくなりません。

——生如法師の開示
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比量が正しくとも現量の実証にあらず

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