原文:須菩提、仏に白して言う。世尊よ。頗る衆生有って、是の如き言説章句を聞くことを得て、実信を生ぜんや。仏、須菩提に告げたまわく。是の説を作すこと莫れ。如来滅後の後の五百歳に、戒律を保ち福徳を修める者有って、此の章句に於いて、能く信心を生じ、此を以て実と為すべし。当に知るべし、是の人は、一仏二仏、三四五仏に於いて善根を種うるに非ず。已に無量千万の仏所に於いて、種々の善根を植えてきたのである。
釈:須菩提が仏に申し上げた:世尊よ、まさか衆生がこのような説法や章句を聞いて、真実の信心を起こすことができるのでしょうか? 仏は須菩提に言われた:そのように言ってはならない。如来が滅して後の最後の五百年に、戒律を保ち福徳を修める者がいて、これらの法理章句に対して清浄な信心を生じ、これらの法理章句が真実で信頼できると認めることができる。あなたは知るべきである、この人は一尊の仏、二尊の仏、三、四、五尊の仏のもとでだけ善根を植えたのではなく、すでに無量の千万尊の仏のもとで善根を植えてきたのである。
前の品で世尊は開示された:凡べて所有の相は皆是れ虚妄なり、若し諸の相の相に非ざるを見れば、即ち如来を見る。須菩提はこれを聞いて疑問を抱き、衆生がこのように深い章句の義理を聞いて、真実に信受することができるだろうかと疑った。この質問は時宜にかなっている。なぜなら衆生の根基には利鈍があり、福徳智慧に違いがあるため、法に対する信受も異なるからである。薄福で鈍根の衆生は真実の大法を信受することが難しく、往々にして疑いや謗りを生じる。古来よりこのようなことはあり、法華会では五千人の弟子が大乗を信受せずに退席したではないか? これも正常な現象であり、歴劫を通じて実相の法を信受せずに法を謗ることはあった。なぜなら衆生は結縛を断ち切っておらず、恒に我見・見取見・疑見などの邪見を生じ、正知見を具えていないため、法を謗り信じないことは必然であるからである。
我見とは五蘊十八界を我とする知見であり、この我が真実であると認め、五蘊の機能作用が真実であると考えることである。見取見とは衆生が自己の知見を主とし、正しいかどうかに関わらず、他人が正しくても信受しないことである。また衆生は実相心を証得していないため、世間及び出世間に対する様々な見解や知見は全て誤った邪なものであり、例えば外道の六十二見の如きものである。疑見とは衆生が正しい法理や善知識に対して正しい判断や認識ができず、心に疑いの結び目を抱いていることである。これらの結び目が衆生をしっかりと縛っているため、衆生は無明から逃れることができない。さらに衆生の福徳因縁が具足していないため、法や三宝を謗ることは免れず、ましてや末法の時期においてはなおさらである。
世尊の正法は一千年、像法は一千年、末法は一万年続く。如来滅後の後の五百年は、おそらく末法が滅びる前の五百年を指し、その時には戒律を保ち福徳を修める者は稀であり、もし存在するならば、必ず善根福徳が非常に深い人であり、金剛経が如来の身相を破り、一切の法相を破るというこのような章句を見て、深く信じて疑わず、如来の説法が真実であると讃嘆するであろう。そのような人は必ず稀有で得難い。凡そ金剛経中の章句及び義理を信受する者は、即ち正信の人である。
正信に達することは非常に容易ではなく、菩薩の修学の道においては既に十信位の修学段階を経て、福徳を修め戒律を保ち忍辱を修め禅定を修め智慧を修める十住位の段階に入り、四加行(煖・頂・忍・世第一法)を修め円満にし、菩提の資糧も具足し、一切の仮相を破り、実相に証入している。これは数十劫、数百劫、数千劫、あるいはそれ以上もの長い劫を経て、仏法を熏修し、それによって正見を備えている必要がある。その過程で必ず無数の諸仏を経験し、供養しており、無量千万の仏所で経を聞き法を聴き、種々の善根を植え、様々な福徳を積んできており、短い劫で成し得るものではない。無数の衆生が発心して道を修めるが、この境地に至る者は極めて少数である。だから大部分の人が初学の段階にあるのを見ても不思議ではない。仏道を修学することは甚だ容易ではなく、ただ無量劫また無量劫と生死を流転し、無明が根深く、善根が浅薄であるため、数日の陽光で長年積もった堅い氷を融かすことはできないのである。
原文:是の章句を聞き、乃至一念に、浄信を生ずる者は。須菩提よ。如来は悉く知り悉く見たまう。是の諸の衆生は、是の如き無量の福徳を得ると。
釈:このような章句を聞き、乃至一念の清浄な信心を生じる者は、如来は皆ご存知であり、かつこれらの衆生が無量無辺の福徳を得たことを見ることができる。
仏はまた具足一切種智の人とも称され、福徳智慧は共に円満具足し、世間及び出世間法を全て了知し、如来蔵の中に含蔵される種子・機能を全て了知し、一法も知らないことがないので一切種智と称される。この智慧は微細であり、十方世界が同時に雨が降ることも、仏は具体的な滴の数を知っている。一つの世界には十億の四大洲、十億の四大海、十億の須弥山、十億の欲界六層天、十億の初禅天、および無数の二禅以上の諸天がある。十方にはどれほどの星体があり、どれほどの範囲か、降る雨滴の数も仏は了知している。仏の智慧はさらに微細であり、十方世界の全ての衆生が一つの心念を生じることも、仏は了知している。しかし衆生は自分の心念すら常に覚知せず、念仏や読経を長く続けて初めて、自分がずっと妄想をしていたことに気づき、意根が何かに攀縁するとそれを考え、心猿意馬で制御するのは難しい。
十方世界の衆生はどれほどいるだろうか? 私たちの地球という一つの星体だけでも人類は約七十億以上であり、畜生はどれほどいるだろうか? 数えきれない。一匹の魚が子を産めば数千、数万匹になるかもしれない。一メートル四方の土地にはアリが無数におり、様々な昆虫や細菌は数えようがない。至る所に細菌は発生し、私たちの表皮の一寸毎の肌は全て細菌であり、九つの穴や流れ出る涙や汗などの分泌物も細菌である。皮膚を開けば、内部の筋肉筋骨骨髄血液脳漿内臓は全て細菌であり、一箇所としてないところはない。
仏経では、これらの細菌は三頭六臂で五色に輝き、奇怪な形をしており、互いに殺し合い呑み込んでいる。もし数や種類のバランスが崩れると私たちは病気になり、皮膚病はそのようになる。だから薬で殺菌すると、別の有益な菌も殺され、また別の病気になる。鬼神類の衆生は、荒れ山や人里離れた野原、川辺や林の傍、十字路など至る所にいて、一本の小さな草にさえ福のない衆生が付着している。楞厳経で世尊は言われた:清浄な比丘は岐路を行くにも生草を踏まず、ましてや手で抜くことなどありえない。福のない衆生は一本の小さな草を家とし、草に依って生きている。もし踏みつけたり手で抜いたりすれば、衆生の家を壊すことになる。さらに地獄の衆生、阿修羅類の衆生、非人類の衆生を加えれば、一つの小世界の衆生はこれほど多く、一大千世界、十方の大千世界はどれほどになるだろうか?
これほど多くの衆生が、それぞれ一つの心念を起こしても、仏は全て了知している。したがって、どの衆生の縁が熟し、善根が成熟したか、仏は全てご存知であり、それに応じた因縁を整え、得度させられる。だからもし人が金剛経の章句を聞き、一念の浄信を生じるならば、如来は当然悉知悉見される。各衆生は無始劫以来、どの道に生まれ、どのような業行を造り、どのような果報を受け、またどれほどの善根を植え、どれほどの福徳を積み、いつ道に入り道を成じるか、仏は全て了知している。
原文:何を以ての故に。是の諸の衆生は、復た我相・人相・衆生相・寿者相無く、法相も無く、亦た非法相も無きなり。
釈:なぜそう言うのか? それはこれらの衆生が如来の身相に執着せず、凡べて所有の相は皆虚妄であることを了知し、すでに我相・人相・衆生相・寿者相がないからである。彼らは先に四種の相を破り、さらに進んで一切の法相を破り、心に法相もなく非法相もない境地に修めている。
法は有為法と無為法、縁生法と非縁生法に分けられる。五陰は法であり、十八界は法であり、三界は全て法であり、真如もまた法である。凡そ人が認知できるものは全て法であり、見えるか見えないかに関わらず、存在するものは法であり、真の法と妄りの法、生滅の法と不生滅の法、因縁によって成る法と先天から存在し因縁によって成らない法があり、様々な角度、様々な面で区別がある。
法には因縁法と非因縁法があり、因縁法は即ち空であり、即ち妄りである。非因縁法は元々存在する法であり、即ち真実の法、壊れ滅びない法である。凡そ直接成仏を指し示す法は、即ち究竟の法であり、明心見性の法・真如の法は即ち究竟の法であり、究竟の法に達する方法は方便法である。法相は有であり、非法相は空である。金剛経中の章句に対して一念の清浄信を生じる人は、四相を破っただけでなく、法相と非法相も破っている。
原文:何を以ての故に。是の諸の衆生、若し心に相を取れば、即ち我・人・衆生・寿者に著く。若し法相を取れば、即ち我・人・衆生・寿者に著く。若し非法相を取れば、即ち我・人・衆生・寿者に著く。是の故に法を取るべからず、非法を取るべからず。
釈:なぜそう言うのか? これらの衆生がもし心に相を取れば、即ち我・人・衆生・寿者の四相に執着するからである。もし法相に執着すれば、即ち我・人・衆生・寿者の四相に執着する。もし非法相を取れば、即ち我・人・衆生・寿者の四相に執着する。したがって法を取ってはならず、非法を取ってもならない。
衆生がもし心に相を取れば、何の相を取るにせよ、私が相を取るために、四相に執着する。衆生がもし有法の相を取れば、私が相を取るために、四相に執着する。衆生がもし無法の相を取れば、私が無法の相を取るために、四相に執着する。衆生が有法を取ろうと無法を取ろうと、私が相を取るため、全て四相に執着することになる。
法相は三界の有法であり、三界は衆生の認知によって存在する。私がいるからこそ三界の法相を認知できる。だからもし法相を取れば、一切の法は法相がある有法であると認め、即ち我・人・衆生・寿者の四相に執着する。もし非法相を取れば、一切の法は皆空であり、存在せず、法相がないと認めることも、同様に四相に執着することになる。
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