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日常法話

2025年12月08日    月曜日     第1開示 合計4544開示

金剛経解説・なぜ一念の清浄な信心の者には四相が無く、法相が無く、非法相が無いのか?

仏陀が説かれた「もし諸相が相にあらずと見るならば、すなわち如来を見る」という教えを清浄な心で信じる者は、信根が非常に厚く、すでに無量千万の仏のもとで深い善根と福徳を積んできた。清浄な信に達し得る者は、金剛心を実証し、四相を空じ、法相を空じた者でなければならず、実証した後に初めて法相と非法相に対して疑いがなくなり、その信は清浄純粋となる。証信こそが清浄な信であり、実証以前の信には程度の差こそあれ疑念が含まれており、清浄ではなく純粋でもない。金剛心を実証した後は、心の中に我相、人相、衆生相、寿者相は存在せず、眼前にこれらの相がすべて金剛心が幻化した仮の相であることを観察するため、それらはすべて空である。

四相の観察は比較的浅く、必要な観察智慧もそれほど深く細やかである必要はない。法相は四相よりもさらに微細であり、必要な観察智慧はより深く細やかである。したがって、四相を空じる智慧は法相を空じる智慧よりも浅く、三賢位の般若智慧に属する。一方、法相も非法相もない状態は、入地以後の唯識種智に属する。四相は衆生の五蘊の範疇内にある。法相は五蘊の範疇を超えてはいないが、非常に微細で観察が難しい。例えば、世の中のあらゆる習俗・風俗、すべての規則・法則・法律制度、人類の行動規範と基準、人類の種々の思想観念、各学問分野の学術技術知識、自然界のあらゆる現象、そして仏教における各種の修行法則・理念・観念・認識などである。これらの法相はあまりにも多く、広範かつ深遠で微細であり、言葉に表せないものも多く、すべて唯識種智の範疇に属する。そしてこれらの法相はすべて非法相であり、ただ名づけて法相というに過ぎない。

仏の説かれた甚深な法理に対して一瞬のうちに清浄な信を生じる者は、心の中に四相がないだけでなく、法相も破り、さらに非法相までも破っている。心は極めて清浄であり、一切の相を取らず執着せず、智慧は非常に深く鋭い。四相を破っていない凡夫の衆生も、仏の説かれた甚深な法理を信じてはいるが、未証であるがゆえに心に疑念があり、その信は証信ではないため、完全に純粋ではない。四相だけを破った菩薩は法を証して証信を得ているが、まだ破られていない法相が残っており、証は不十分で未完成である。その信も完全に純粋とは言えず、法相と非法相を破り、内心が非常に空しく清らかで相に執着しなくなって初めて、真の清浄な信を持つ菩薩となる。

もし人の心に取る・執着するということがあれば、四相が存在する。なぜなら、我があるから取るのであり、我がなければ誰が取るのか?したがって、人が相を取るならば、我相・人相・衆生相・寿者相がある。もし法相を取るならば、我相・人相・衆生相・寿者相がある。もし非法相を取るならば、やはり我相・人相・衆生相・寿者相がある。ゆえに菩薩は法を取るべきではなく、非法も取るべきではない。仏は言われた:私の説く法は筏の喩えに用いることができる。筏は水を渡る時には必ず用いるが、岸に着いた時には捨てなければならない。そうしなければ岸に上がることができない。法は必要な時には用い、実証して不要になれば捨てるべきである。法を捨てるだけでなく、非法も捨てねばならない。心の中に法や非法があれば空しく清らかではなく、涅槃の岸に上がることはできない。法は有であり、非法は無である。有は非(誤り)であり、無もまた非である。すでに非であるならば当然捨てるべきであり、是非(正誤)を立て取り入れるならば、四相は空じられない。有がすでに非であるならば、それに対立する無も当然非である。一切の法は非法でも非非法でもなく、四相を離れ百非を絶って初めて究竟の境地に至る。この品では、法相と非法相が破られた。

金剛経 正信稀有分第六 原文:この義のゆえに、如来は常に説きたもう、汝ら比丘よ、我が説法するは筏の喩えのごとしと知れ。法すら尚お捨つべきである。いわんや非法においてをや。

釈:このゆえに、如来は常々こう説かれる:比丘たちよ、私が法を説いて人を度すのは、あの筏の喩えのようだと知るべきである。川を渡ったならば筏を捨てるべきであり、踏みしめて離れないでいてはならない。仏法も同様で、成仏した後はもはや用はなく、成仏する直前に一切の法を捨てて初めて仏となることができる。是なる法すら尚お捨て離れるべきである。ましてや非法である断滅空の法は、なおさら捨て離れるべきである。

なぜ如来は説法に筏の喩えを用いるのか?筏は人を川の向こう岸に渡すためのものであり、岸辺に着いたならば、船を離れなければ岸に上がれない。船から離れることを拒めば岸に上がることはできない。仏の説かれた法は筏であり、衆生はこの法の船に乗って大いなる涅槃の彼岸に登ることができる。もし衆生の心に一法でも存在し滅びないものがあれば、それは清浄ではなく、垢であり、無明であって、仏道を円満に成就し大いなる涅槃を証得することはできない。心の中の一切の法を捨て去り、有も空も執着せず、真如の心のように空しく清らかで一法もない状態にすべきである。しかし岸に着くまでは、決して船を捨ててはならない。生死の海を渡っていないのに、なぜ船を捨てるのか?仏法は薬であり、衆生のさまざまな煩悩の病、無明の病を治すために用いられる。如来蔵の法は一味散(全ての病に効く薬)であり、衆生のあらゆる無明の病を治療する。服する者は必ず無明を去り、生死の海を渡り、涅槃の道を成就する。この薬こそが唯一衆生を救い、涅槃の彼岸に渡すことができる。ゆえに仏弟子が涅槃の岸を目指すならば、一切の有法・空法、法と非法を捨て去らねばならない。


——生如法師の開示
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