他人の物を欲しいと思うならば、その人が本当に与える意思があるかどうかを観察しなければならない。意根が同意しているのか、それとも意識は望んでいるが意根が同意せず、やむを得ず与えるのかを確認する必要がある。もし意根が与えることを望んでいないのに、行動上意識が仕方なく大方的に与えた場合、その施しは真の施しではなく、得たものも正当ではない。その結果、あまり良くないことが起こる可能性があり、相手は取り戻そうと考えるだろう。
もしある人が相手が心から与えたくないと知っていながら、相手が面子などを気にしてほぼ与えるだろうと推測し、その上で求めると、相手は確かにしぶしぶ与えたものの、心の中では非常に不愉快に思う。このような状況は、ほとんど公然の強奪に等しい。
公然の強奪と窃盗はどのような関係にあるのか?どちらも相手の意根の同意を得ずに奪う点では共通している。公然の強奪は明るみで奪うことであり、窃盗は密かに奪うことである。強盗は公然の強奪であり、窃盗あるいは大規模な窃盗と同等である。こうした点から人物が君子か小人かを判断するのはほぼ明らかであり、君子は他人の美点を奪わず、己の欲せざることは人に施さず、公明正大で率直であり、陰で策略を弄したり手段を用いたりしない。一方、小人は常に憂い悩み、陰湿で、手段や策略を用い、心の中は邪念(鬼主意)や悪巧み(鬼道道)に満ち、暗い面が多い。
人と取引する際に、強引に値切る行為、特に相手が耐えられる限界に達するかそれを超えるほど値切ることは、強奪や窃盗に等しい。したがって物を買う際には、過度に値切らず、相手が心理的に受け入れられるようにし、相手の心理的状態や受容能力を配慮すべきである。これもまた人としての修養と行いである。だから仏陀は五戒十善を説き、それは私たちに人としての道を教えるためである。末法の現代を観察すると、確かに人としての道を知らない者が多い。人としての道すらわからないならば、我見を断って聖人となることなど不可能である。
あらゆる悪業を作る者は、いずれも「我」の性質が非常に強い。その出発点は全て「我」のためであり、至る所で自己中心であり、自己の主観から出発し、全ては自己のためである。これが悪業を作る原動力である。したがって心の性質が悪い者、煩悩の重い者、利己的な者は、我見を断つことは不可能である。ある者は貪(貪欲)ゆえに、法すらも我がために悪業を作る。ある者は瞋(怒り)ゆえに、貪り得ないがゆえに怒り、己の意に沿わないがゆえに怒って悪業を作る。ある者は痴(無知)ゆえに、己の所有を守るため、あるいは己の愛するものを奪うために悪業を作る。ある者は貪瞋痴を具足して悪業を作る。では、善業を作る者は何のために善業を作るのか?これもまた「我」のために善業を作るのか?それとも「無我」のために善業を作るのか?
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