衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月02日    土曜日     第4 回の開示 合計1304回の開示

仏法の実証は必ずや現量観察である

仏法の実証は比量によるのではなく、現量の観察によるものであり、推理や推測、推論、研究に頼るのではなく、禅定における観行と参究に依拠するものです。このようにして得られた結論こそが現量であり、信頼に値し、真理を発見し、真理を証得し、真実の受用を得て疑いを断ち信心を生じさせるのです。

いわゆる比量は推測に似ており、推測が正しい場合も多くはなく、正解率も高くありません。たとえ推測が正しくても、現量観察には等しくなりません。例えば山の向こうから煙が上がっているのを見て、比量による推測・推論を働かせ「きっと山の向こうで火事が起きているに違いない」と考えますが、実際には火事ではなく湿った草を燻している場合もあるでしょう。また女性の妊娠を見て「必ず淫欲を経て妊娠した」と考える場合でも、高い禅定を得た者は淫欲なしで入胎することが可能です。五祖の入胎もそのような例であり、唐や宋の時代にも禅定の高い禅師たちが同様の入胎を遂げた事例があります。

比量が現量に等しくない例は極めて多く、比量は完全に意識の理解・意識による類推・意識の推理・意識の推測に依存します。意識が多少鋭ければ達成可能であり、これは難事ではありません。世間に小賢しい者は数多く存在しますが、難関は現量の観察にこそあります。これこそが無数の人々が修行して解脱を求める中で、真の解脱者は鳳毛麟角の如く、真の聖賢人が永遠に極少数派である根本原因であり、聖と凡の比率は均衡しません。

推測・推理によって導かれた結論は実証に等しくありません。たとえ推論が正しく事実と符合した場合でも、疑いを断つことはできず、解脱の功徳受用を得られません。例えば凡夫衆生は皆、自己の五陰十八界を真実の我と認識しています。表面的には全ての凡夫衆生に疑問がなく確信しているように見えますが、もし衆生が本当にこの点を確信しているなら、なぜ仏陀が五陰無我を説かれた際に疑問を生じ、四聖諦の理を観行参究する者が現れ、最終的に自らの従前の認識が誤りであったことを証するのでしょうか。これこそ衆生の所謂「確信不疑」が信頼に値しない証左であり、そうでなければ仏陀はどうして衆生を救済することができようか。同様に、多くの人々の意識による推理・推論・研究も心の底で疑いを断っておらず、遅かれ早かれ自ら導いた結論を覆し、真実の実証を得ざるを得ません。

さらに科学者が様々な科学的手法で研究し結論を出した場合、たとえ全ての人が同意しても、それが必ずしも事実とは限りません。そうでなければ、後の科学者がより現代的な技術手段で先行研究の結論を覆す事態は生じないはずです。もし科学者の推論研究が全て正確無謬で事実に合致するなら、科学者は仏陀と同等の大智慧を具え、宇宙の真相を完全に探求し、世間法の本質を知り、その結論が仏陀の聖教に背かず、全て仏法中の聖賢となり衆生の導師となるべきです。しかし現実はそうではなく、彼らは深重な無明を抱え、依然として完全な凡夫であり、法界の実相を知りません。

このように比量の方法論は仏法修行に用いることができず、仏法実証の手段とはなり得ません。推論によって得られた結果は、たとえ自らが強く信受しても真の信受ではなく、意根に未だ疑いが残りながら自覚できていない状態です。命終の時に真相が明らかとなるでしょうが、その時振り返って間に合うものでしょうか。

——生如法師の開示
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