衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年04月30日    水曜日     第1開示 合計4378開示

いかにして正しい観行法を実践するか(意根訓練篇)

観とは観察であり、客観的に見つめることです。簡単に言えば、一点に集中し、一心不乱に見ることです。考えたり、思惟したり、ましてや分析や解剖をすることではありません。目の前に現れた現象をそのまま観察し、現れていないものを想像せず、解剖・分析せず、学んだ教えを当てはめようとせず、いかなる理論的知識も代入せず、いかなる枠組みにも縛られてはいけません。はっきり言えば、意識を打ち殺し、意識が強引に前面に出て、様々な理論をひけらかし、学んだ知識を当てはめ、何も観えていないのに分析で結論を出すことを許してはいけないのです。

北京の様子を想像することと、実際に北京に行って直接北京を見ることとは、全く異なる境地であり、天と地ほどの差があると言えます。後者は親しく見、親しく証し、実証することであり、前者は夢遊病ですらなく、夢にも見たことがないのに、ただ口を動かし、唾を飛ばしてべらべらと講釈を垂れ、理論家然とした態度を装い、著作も書き上げ、名声さえ築き上げていますが、実際には何者でもありません。

最初の仏陀が修行した時、何の理論もなく、何の知識も学んでいなかったのに、どうして仏陀になることができたのでしょうか。様々な現象界をありのままに観察し、現量で観察し、心を細やかにして、様々な現象界からその背後にある真理・真実を発見し、一つの真理を見つけるごとにそれをまとめ、後世の人々を導く理論を形成しました。小乗・大乗の空をも証得するに至り、ひたすら空に徹し、絶えず空に徹し、空じ尽くしてついに空ずべきものもなくなった時、仏陀となったのです。

今は師匠が教えを多く説き、弟子たちも多くを学び、学び続けるうちに心が怠惰になり、問題に遭遇するとすぐに学んだ理論を当てはめ、自ら参究し自ら証することもせず、理論が所知障となってしまいました。その理論はあなたが自ら修行してまとめたものですか? そうでないなら、どうして至る所で使えるのですか? 口だけは絶えず動いているのに、足は一歩も前に進まず、目的地には永遠に到達できません。口先だけでは意味がありません。理論は修行と証しの方向と方法を示すものであって、ひけらかすためのものではなく、自分を偽装するためのものでもなく、世間の空法・仮法を獲得する手段でもありません。理論の金の沼に陥ると、窒息して死んでしまいます。仏法は良薬ですが、使い方を誤ったりうまく使えなかったりすると、毒薬となり、病上病を招きます。

観行の火の輪を例に取れば、どうすればありのままの観察と言えるのでしょうか。火の輪を注意深く、専一に観察し、ただ観察し注視すればよいのです。分かりやすく言えば、じっと見つめればよいのです。定力が現れると、火の輪が少し虚ろで、あまり実在的でないことに気づくでしょう。さらに観察を続けると、火の輪は火の輪のようには見えなくなり、さらに観察を進めると、火の輪は実は松明(たいまつ)であり、あるいはただの燃えるマッチの火に過ぎないことに気づくでしょう。どこに火の輪などあったでしょうか? 最後には松明もマッチの火も観じて空じ、無くしてしまいます。道理は皆同じです。

火の輪は元の火の輪のままであり、松明は元の松明のままです。観行者に定力が現れた後、心が細やかで智慧が生じ、その中の奇怪な点や違いに気づき、心の認知が変化し、法を空じ物を空じ、我を空じ人を空じたのです。定力がない時は心が粗く、認知力が低く、見ているのはすべて仮の姿であることに気づかず、自分の視覚に騙され、つまり自分の習慣的な認知に騙されていたのです。以前は何もかもが実有であり、自分自身はなおさら実有だと断固として信じていましたが、観察を究めると、世の中に実有の法は一つもなく、自分はこのようにして無量劫も自分自身を騙してきたことに気づくのです。胸を叩き、地団太を踏むべきではないでしょうか?

呼吸を観じ、鼻端白(はなのはじろ)を観じ、胎息を観じ、白骨を観じ、花を観じ草を観じる。何を観じるにしても、このように観じれば、皆同じ結果になります。観じているその法が生住異滅し、不実在になり、虚ろになり、空じることを観察すれば、一つの小さな目標は達成されます。意識の想像や理論的分析を加えてはいけません。意識が何を分析しても無意味です。道は足で歩むものであり、意識を閉じ込め、余計なことをせず、意根で直観し、直接観じ、純粋に観じるのです。意根で直接に道を見るのであり、意識では道を見ることはできません。

聖賢の実証の事例を見れば分かります。我々がそれをどれほど分析しても、それは相似の理解に過ぎず、現量で見たこと、現量で知ったこと、現量で感じたことではありません。分析によって得られた境地と実際の現量の境地との差は非常に大きく、時には正反対です。分析では理路整然とし、巧みに語ることができても、実証した後には「なるほど、こういうことだったのか」と言い、以前の想像や認知が覆されるでしょう。

現量境の深みにいて、親しく見、親しく体得している時は、はっきり正確に表現できないかもしれません。一方、意識の非量境では、非常に道理にかなって話せても、実際とは異なります。まるでリンゴを食べるようなものです。食べる前は様々に分析し、資料を調べ、様々な論文や論述を書き、大げさに語り、一言一言が精彩を放ちます。食べた後は、リンゴの味がこういうもので、感覚がこういうものだと分かります。その時になって初めて本当の味が何かを知り、以前の認知が覆され、論文を焼き捨ててしまうのです。一言も核心を突いておらず、空しい文字に過ぎません。

現量境とは何でしょうか? 今まさに享受し、親しく体験し、三昧の中にあり、分析せず、思惟せず、想像せず、理解せず、直接感じることです。多くの人が悟りだと言うものは、現量境を直接少しも感じておらず、何の親身体験もなく、何の受用もなく、すべて頭で想像し理解しただけです。ですから、やはり修行をして実証すべきです。実証以前の様々な分析や理解は、あまり真に受けないでください。ましてや、理解や分析によって得たものを悟りだと思ってはいけません。両者の差はあまりにも大きく、比べものになりません。いくら学び、いくら思惟しても無意味で、実証には何の役にも立ちません。直接修行に取り組む方がましで、得られるものこそが真実です。


——生如法師の開示
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