「観」とは観察すること、客観的に見つめることであり、端的に言えば一点に集中して一心不乱に見ることであり、思い巡らすことでも、思惟することでも、ましてや分析や解剖することではありません。眼前に現れる現象をそのまま観察し、現れていないものを想像せず、解剖したり分析したりせず、学んだ法を当てはめようとせず、いかなる理論知識も代入せず、いかなる枠組みにも縛られないことです。明らかに言えば、意識を打ち殺し、それが勝手に頭角を現して様々な理論をひけらかし、学んだ知識を当て嵌め、何も観ずに分析だけで結論を出すことを許さないことです。
北京の様子を想像することと、実際に北京へ行って直接観ることは全く次元の異なる境地であり、天地ほどの差があると言えます。後者は自ら見て自ら証し、実証するものであり、前者は夢遊びですらなく、夢にも見えないものを、ただ口先だけで滔々と語り、理論家然と振る舞い、著作を著し、名声を築いても、実態は何もないに等しいのです。
最初の仏が修行した時、何の理論もなく、何の知識も学んでいなかったのに、どうして仏となれたのでしょうか。あらゆる現象界をありのままに観察し、現量で観察し、心を糸のように細やかにして、様々な現象界から背後にある真理を見出し、一つの真理を発見すればそれをまとめ、後世を導く理論を形成したからです。小乗の空も大乗の空もことごとく証し、ひたすら空じ続け、空じ続け、ついに空ずるべきものもなくなった時、仏となったのです。
今は師が法を説き過ぎ、弟子たちも学び過ぎて、学び続けるうちに心が怠惰になり、問題に遭遇すればすぐ学んだ理論を当て嵌め、自ら参究し自ら証することもせず、理論が所知障となっています。その理論はあなたが自修してまとめたものですか。そうでないなら、どうして至る所で使えるのでしょう。口ばかり動かし続け、足は一歩も進まず、目的地には永遠に到達できず、口先だけでは何の役にも立ちません。理論は修証の方向と方法を示すもので、ひけらかすためではなく、自分を偽装するためでもなく、世間の空法や仮法を得る手段でもありません。理論の金の沼に嵌まれば、窒息して命を落とすこともあります。仏法は良薬ですが、使い方を誤れば毒薬となり、病に病を重ねるのです。
観行の火の輪を例に取れば、どうすればありのままの観察と言えるでしょうか。細心に、専一に火の輪を観察し、ただ注視し続けることです。平たく言えば凝視するだけです。定力が現れると、火の輪が少し虚ろに見え始め、さらに観察を続けると火の輪は火の輪らしくなくなり、さらに観察を進めると火の輪は実は松明であったり、ただの燃えるマッチの先端であったりするのが分かります。どこに火の輪があったでしょうか。最後には松明もマッチの先端も観空し、観じ尽くせば消え去ります。道理は全て同じです。
火の輪も元の火の輪、松明も元の松明です。観行者の定力が現れ、心が細やかに智慧が生じると、その中の不可思議さと差異を発見し、心の認知が変わり、法も物も空じ、我も人も空じます。定力がない時は心が粗雑で認知力が低く、見ているのは仮象だと知らず、自分の視覚に騙され、習慣的な認知に騙されているのです。以前は何もかもが実在すると断じ、自分という存在こそ実在だと確信していましたが、観察を極めると、世間に実在する法は一つもなく、自分はこうして無量劫も自分自身を騙し続けてきたのです。胸を叩き地団太を踏むべきではないでしょうか。
呼吸を観じ、鼻端白を観じ、胎息を観じ、白骨を観じ、花や草を観じる、何を観ようとも全てこのように観じ、同じ結果を得ます。観じる対象の法が生住異滅し、不実で幻となり、空じるのを観じれば、小さな目標が達成されます。意識の想像や理論分析を加えず、意識が何を分析しようとも無駄です。道は足で歩むべきもので、意識を閉じ込め、余計なことをせず、意根で直観し、直接観じ、純粋に観じることです。意根で直接見道するのであり、意識では見道できません。
聖賢の実証事例を見れば分かります。我々がそれをどう分析しようとも、全ては似たような理解に過ぎず、現量で見たもの、現量で知ったもの、現量で感じたものではありません。分析した境地と実際の現量境界の差は極めて大きく、時に全く逆です。分析では理路整然とし、巧みに語れても、実証すれば「原来自分はこうだったのか」と感じ、以前の想像と認知を覆すことになります。
現量境の深みにいて、目で見て体で感じていても、はっきり正確に表現できないことがあります。一方、意識の非量境界では、道理にかなって話せても、実際はそうではありません。林檎を食べるようなものです。食べる前は様々に分析し、資料を調べ、論文を書き、立派に語り、句句精彩を放っても、食べてみれば林檎の味わいがこういうものだと分かり、感覚がこうだと知ります。この時初めて真の味を知り、以前の認知を覆し、論文を焼き払ってしまうのです。一言も核心に触れず、文字だけが残ります。
現量境とは何か。今まさに享受し、自ら体験し、三昧の中にあり、分析せず、思惟せず、想像せず、理解せず、直接感じることです。多くの人の言う「悟り」は、現量境を直接感じたことがなく、自ら体験せず、何の受用もなく、全て頭の中の想像理解に過ぎません。やはり功夫を積んで実証すべきです。実証前の様々な分析理解は、あまり重んじず、ましてや理解分析したものを悟りと見做してはなりません。両者の差はあまりに大きく、比べるべくもありません。いくら学び、いくら思惟しても無駄で、実証には何の役にも立ちません。直接功夫を実践し、得たものこそ真実なのです。
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