楞厳経第五巻原文:(周利槃陀迦)仏は我が愚かなりを憐れみ、安居を教え、出入息を調えさせ給う。我が時に息を観じ、微細を窮め尽くす。生住異滅、諸行刹那。其の心豁然として、大いなる無礙を得、乃至漏尽し、阿羅漢を成じ、仏の座下に住し、無学と印成せらる。仏、円通を問う。我が証する所に如く、息を返り見て空に循う。斯れを第一と為す。
釈:仏が周利槃特迦に安居一処を教え、出息と入息を調えるよう指導された。調えること自体が出入息を観じる修行であった。周利槃陀迦が出入息を観じるうち、遂に自らの呼吸が極めて微細になり、断絶寸前となる様を観じた。更に呼吸の生起・暫留・変異・消滅という微細な過程を観察し、出息入息が刹那刹那に運行することを覚知した。つまり呼吸は連続した過程ではなく、分割可能な機械的なプログラムであり、組み合わされた仮の現象であることを悟った。
この境地に至り、豁然として呼吸が空なる虚妄のもので実体なきことを発見。周利槃陀迦の心は忽然と開け、五蘊皆空・無我の理を頓証し、生滅法に障碍されず、煩悩を断尽して四果の大阿羅漢を証得した。その観行の要諦は、呼吸の往来を反観し、その源が空、行先も空、生住異滅の全過程が空なることを了得する点にあった。
呼吸観察は修行の後段階に属する。初期段階では鼻孔の気流を観じるが、これは粗相で観じ易い。気が体内に入ると次第に脈絡と連動する「息」に転じ、微細化する。極めて微細な息は鼻孔呼吸と無関係に、身体自体が自動的に運行する。四禅の呼吸停止状態においても、毛孔から気が入り「息」となり、血液循環を促して生命活動を維持する。四禅の捨念清浄定では念想が無く、気血消耗が少ないため、毛孔呼吸で充分に養分を供給できる。
息の本源は丹田にあり、全身を運行する。観察の焦点は丹田の起伏にあり、一昇一降が一息となる。禅定が深まると、全身の息の運行を観じ、その粗細緩急を淡々と客観視する。やがて息が断続的で非連続な仮の現象であることを覚る。恰も火の輪の如く、実体は火把の軌跡に過ぎぬと悟るが如し。この観察を通じ、一切法が空なることを証得する。
衆生は愚痴により禅定力を欠き、一切法を実体視して執着する。世間で「努力」「大志」「事業心」と称するものは、実体なき空法への妄執に過ぎぬ。真の観行は法の生住異滅を如実に観じ、空理を証するにある。難所は世俗への執着を断ち切れぬ点にあり、観法の要諦を掌握すれば、見道は決して難事ではない。
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