衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年04月28日    月曜日     第1開示 合計4377開示

いかに観行すれば見道できるのか(意根訓練篇)

楞厳経第五巻原文:(周利槃陀迦)仏は我が愚かなるを憐れみて、安居を教え、出息入息を調えよと。我その時、息を観じ、微細を窮め尽くし、生・住・異・滅、諸行刹那を観ず。その心豁然として大いなる無礙を得、乃至漏尽し、阿羅漢を成じ、仏の座下に住して、無学と印せらる。仏、円通を問う。我の証する所に如く、息に返りて空に循う。これ第一と為す。

釈:仏が周利槃特迦に一処に安居し、出息と入息を調えるよう教えた。調えることそのものが出入息の観察である。周利槃陀迦が出入息を観じた時、究極には自身の出入息が極めて微細で、ほとんど断えんとするほどであることに気づいた。さらに出息・入息の発生、暫留、変異、消滅という微細な過程をも観察し、出息も入息も刹那刹那に運行していることさえも見抜いた。すなわち入息出息は一刹那ごとの過程であって、連続不断の完結した過程ではなく、分割可能な機械的な過程とプログラムであり、組み合わさり寄せ集められたものである。

この境地に至ると、豁然として出入息が空なる虚妄のものであり、実体がないことを発見した。そこで周利槃陀迦の心は豁然と開け、自身の五蘊が空で無我であることを頓悟し、もはやこれらの生滅法に障害されることはなく、ただちに煩悩が断尽し、四果の大阿羅漢を証得した。周利槃陀迦の観行の体得は、出入息の来る処・去る処を反観し、遂には来処も空、去処も空であること、出入息の生・住・異・滅の全過程が空であり、了不可得であることを見出すに至った。

出入息を観ることは呼吸過程の後半部分である。呼吸を観る最初の部分は鼻孔から出入りする気を観ることで、この部分は比較的粗く、観じやすい。気が身体に入って後、次第に脈絡と繋がった息へと変化すると、この部分はより微細になり、非常に微細な息は鼻孔の呼吸気とは無関係になることさえある。それは身体自体が自動的に行う息脈の運行であり、仮に呼吸が止まっても、外気が鼻孔から身体に入らなくとも、この息脈はなおゆっくりと微かに運行し続ける。これが四禅で呼吸が止まる境地であり、人は死なない。では息はどのように起こるのか。人の身体には毛孔があり、外気は毛孔を通って身体内部に入り、息へと変わり、身体の血液流動を促して生命活動の基本的な需要を維持する。

四禅定にない場合、これほど微少な気息では血液の速やかな流動を促すことはできず、身体が必要とする血液の養分供給が不十分となり、窒息感を覚えて耐えられなくなる。四禅定は捨念清浄定であり、心念がないため、それほど多くの気血を消耗せず、毛孔呼吸が提供する養分で十分足りる。

息の本拠は丹田にあり、丹田から全身へと運行する。出入息を観るとは主に丹田の部分の息を観ることであり、丹田の一昇一降が一息である。精力が充実し心がさらに細やかになると、息が全身に運行するのに従って全身の息を観るようになる。息には粗細があり、急緩がある。観じる時は淡々と、疏遠に、客観的に息の運行状況を感じるだけで、いかなる心思や考えも加えない。禅定が深まり、心思が非常に繊細になると、息の運行が極めて微弱で緩慢であることに気づき、それは区切り区切りの運行で、前後の繋がりが密接ではなく、あたかも寄せ集められたようで、実感が伴わなくなる。

これはちょうど火の輪を観るようなものである。普段は火の輪が火の輪として見え、一本の松明が速く揺れ動いて形成されたものだとは気づかず、火の輪など全く存在しない。これは錯覚であり、見誤った感覚である。心が細やかになり、注意深く観察すると、何が火の輪か、松明が固定された円形軌道に沿って一点一点移動しているに過ぎないと気づく。そこで豁然と開け、心は大いに悟り、火の輪など全く存在せず、松明すらも空であることを知る。心は瞬時に空となり、解脱する。これにより火の輪に縛られることはなくなり、毎日火の輪を巡ってぐるぐる回り、安らぎを得られないこともなくなる。

出入息を観ること、および一切の法を観ることは皆この原理であり、究極まで観じると、その事も物も人も法も全く存在せず、全てが空であることに気づく。こうして見道するのである。ただありのままに法の生・住・異・滅を観察しさえすれば、一気に見道できる。観行の指す方向を理解し、正しい観行の方法を掌握し、功夫が修められれば、見道は難しくない。難しいのは心が修道に留まらず、世俗の法を依然として重視し執着し、放下しようとせず、思想観念が決定的な作用を及ぼす点にある。

衆生は愚痴ゆえに、心が非常に粗雑で禅定力がなく、見るもの全てが錯覚である。世間の一切の法を一切の法そのものとして見なし、真実そのもので全く疑わない。だからこそ命がけで絶えず一切の法を掴み取ろうとし、頭を割られ血を流し、傷だらけになり、命さえも捧げながら、なお頑強に戦い続ける。それを努力奮闘、大志を抱く、積極進取、事業心旺盛、理想と責任と担当があるなどと称する。全く存在しない人も事もない空なる法のために、あらゆる代償を払うとは、何とも言えないほど愚かである。


——生如法師の開示
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旋見循元即ち意根円通の法門(意根訓練篇)

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