楞厳経第五巻原文:阿那律陀(アニルッダ)は、即座に座より起ち、仏足を頂礼し、仏に白して言う。「私は出家した当初、常に睡眠を好みました。如来は私を叱責し、畜生の類いであるとおっしゃいました。私は仏の叱責を聞き、泣いて自らを責め、七日間眠らずに過ごした結果、両目を失いました。世尊は私に『楽見照明金剛三昧』をお示しくださいました。私は眼によらずして十方を見渡し、精妙で真実であり、透徹して明らかであり、掌中の果実を見るようでした。如来は私を認め、阿羅漢となされました。仏が円通をお尋ねになるので、私が悟ったところによれば、見を旋回させ本源に循うこと、これが第一であります」。
解釈:阿那律は眼根より修行を始め、その修行の心得は「見を旋回させ本源に循う」ことである。「旋」は回転、反対にする意味であり、眼根の見る作用を本来の外向きから反転させて内向きとし、見の由来する処、すなわち根本の処に至るのである。本来は身の外、心の外に向かって色法を見ていたが、今は逆転して、能見の根本の処を見ようとするのである。根本の処とは何か。見の機能を引き起こす根源の処であり、何が眼根の見を導き決定しているのか。一つは意根、二つには第八識、最も究竟なる処は第八識である。
意根の処に至るのは大阿羅漢であり、第八識の処に至るのは大菩薩である。世俗界の観点から見れば、意根は一切の法を見る機能を有し、内外の六塵界をも見ることを含む。しかし無明のため意根の法を見る機能は制限され、六識が五根を通して見ざるを得ない。もし無明を除去し、意根の最大の功用を回復すれば、六識が五根を通して外に向かって法を見る必要はなくなり、意根単独で法を見ることができ、五根を休ませ、六識を休ませることができる。
阿那律は世尊が教えられた「楽見照明金剛三昧」を修習することにより、意根を用いて法を見る訓練を積み、眼根を用いずに内に向かって見ることを行った結果、十方世界を見ることが可能となり、非常に明瞭で透徹し、真実そのものであり、あたかも自身の掌中の果実を見るようであった。見を旋回させ本源に循うことは、なんと意根円通の法門であった。意根が五塵境を見られないなどと言う者がいるだろうか。大阿羅漢である阿那律の意根は十方世界を見渡し、精妙で真実であり透徹しており、色・声・香・味・触・法の一切を見ないものはない。意根によって三昧を証得したため、意識は用をなさなかった。そうであるならば、意識を発明して証果を得るなどということは、天にも届く大笑いである。
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