衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年04月26日    土曜日     第1 回の開示 合計4375回の開示

意識と意根の見解は異なる

問:昨夜、座禅を終えて寝ようとしたところ、まもなく雨が降り出しました。雨がガラスを打つ音が清らかに響く中、その音を聴きながら眠りにつきました。眠りに落ちそうになった時、雨がまるで私の頭蓋骨を打ち付けているように感じ、やがて半分が砕け落ちて黒い穴が開き、頭蓋骨が半分だけ残りました。心では特に驚くこともなく、そのまま眠りに落ちました。これは座禅から下座したばかりで定力が残っていたためでしょうか、それとも幻覚だったのでしょうか。

答:座禅から下座する時、心が静まり意識が動かず、特に就寝前には意識が完全に静止しています。意根が直接雨音を感知するため、音が非常に大きく感じられ、頭蓋骨の半分を打ち砕かれたという誇張表現で、雨粒の音が極めて大きかったことを表しています。意根の感知するものと意識の感知するものには差異があり、時に非常に大きな隔たりがあります。それ故、我々が普目にする法と、実相を証得した時に見る同じ法は完全に異なり、むしろ正反対であることに気付き、従来の見解が全て誤りであったことを悟り、悔しさのあまり腿を叩くほどであるのです。

何故観行を修めた後、同じく呼吸を見、身行を見、六塵の相を見るに、見道前と見道後では同じ一つの法に対する見方がこれほどまでに異なるのでしょうか。同じく水を飲み、沐浴し、色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を知るに、見道前と見道時では内心の覚受と見解が完全に相反するのでしょうか。

見道前は確信に満ち、色は色、声は声、香は香、味は味、触は触、法は法、我は我と信じていました。見道後は一切皆非となり、色は色にあらず、声は声にあらず、香は香にあらず、味は味にあらず、触は触にあらず、法は法にあらず、我は我にあらず、人は人にあらず。何故このような大いなる差異が生じるのでしょうか。意識の見るものと意根が三昧の中で見るものは全く異なるため、意識による証果は笑止千万であり、このような証と不証には何の違いもなく、愚者の見解に過ぎません。衆生は愚痴であるほど往々にして自信過剰ですが、何を自信とするかといえば、その愚痴を自信とするのです。

見道前、意識は妄想が飛び交い、様々な知見を長々と述べて得意気でした。見道後、意識はついに静まり返り、全てが逆転します。最も多く語る者、最も知見を持つ者、最も頑固な者こそ、最も顛倒しているのです。


——生如法師の開示
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