問:昨夜座禅を終えて寝ようとしていたところ、間もなく雨が降り出しました。雨がガラスに当たって澄んだ音を立て、それを聞きながら眠りにつこうとしていると、まどろみかけた頃に、その雨がまるで自分の頭蓋骨に当たっているように感じられ、やがて半辺が打ち砕かれてぽっかりと穴が開き、半分だけの頭蓋骨が残りました。心では特に驚くこともないと分かっていながら、そのまま眠ってしまいました。これは座禅を終えたばかりで定力がまだ消えていないためでしょうか、それとも幻覚なのでしょうか。
答:座禅から降りたときは心が静まっており、意識は念を動かさず、特に就寝前は意識も動かず、意根が直接に雨音を感知します。音が非常に大きく感じられたため、大げさに表現して「頭蓋骨の半辺を打ち砕く」ことで、雨粒の音が極めて大きかったことを表しています。意根が感知するものと意識が感知するものには差があり、おそらく非常に大きな差があります。ですから私たちが普段目にする法(ものごと)と、実相を証得した時に見る同じ法が完全に異なり、むしろ正反対であることを知って、初めて以前の自らの見解や考え方が全て間違っていたことに気づき、悔いて膝を叩くのです。
なぜ観行を修めた後、同じく呼吸を見、身行を見、六塵の相を見るのに、見道以前と見道以後では、同じ一つの法に対する見方がこれほどまでに大きく異なるのでしょうか。同じく水を飲み、沐浴し、色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を知るのに、見道以前と見道の時では、内心の覚受や見方が完全に正反対になるのはなぜでしょうか。
見道以前は非常に確信していました――色は色、声は声、香は香、味は味、触は触、法は法、私は私であると。見道以後は、全てが「非」となり、色は色にあらず、声は声にあらず、香は香にあらず、味は味にあらず、触は触にあらず、法は法にあらず、私は我にあらず、人は人にあらず。なぜこれほど大きな差が生じるのでしょうか。意識の見るものと意根が三昧の中で見るものは完全に異なるため、意識で証果を得るなど笑い話だと申します。このような「証」と「不証」には何の違いもなく、愚か者の見解なのです。衆生は愚かであればあるほど往々にして自信過剰ですが、何を自信とするのでしょうか。愚痴を自信とするのです。
見道以前は、意識が妄想してさまよい、様々な知見を長々と述べ、得意満面でした。見道以後は、意識はようやく静まり返り、全てが逆転しなければなりません。誰が最も多く語るか、誰が最も知見が多いか、誰が最も頑固か、その者が最も顛倒しているのです。
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