衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年04月20日    日曜日     第1 回の開示 合計4371回の開示

意根会得の殊勝境

私に一人の弟子がおり、意根の使い方を学びました。彼は問題に遭遇する度に智慧が泉のように湧き出て、解決策が次々と生まれます。解決策が現れるとすぐに実行せざるを得なくなり、一つひとつの案を実施していくうちに昼夜を問わず働き続け、体が持ちません。智慧が現れた後、頭の中の考えを実行しないと、後でそれらの発想を思い出せなくなるからです。問題を解決すると視野が広がり、また新たな着想が生まれ、それを実行して次の問題を解決しなければならず、こうして連続作業を余儀なくされ、仕事中毒になってしまいます。仕事効率は何倍にも向上しましたが、体が耐えられません。

私は彼に助言しました。「これから智慧の閃きが湧いたら、すぐに携帯で記録しなさい。簡潔な言葉で、あるいはキーワードだけでも構わない。自分自身の意根から生まれた考えなら、後で記録を見返せば意識が内容を思い出し、思考の流れが再現できる。智慧の資源を無駄にしないように」

別の弟子は数年前に私から教えを学んだ後、海外で学業と仕事に従事し、わずか15ヶ月で5年分の業務と学業を達成し、10年契約を結びました。これも意根を活用した結果、問題処理の智慧が急成長し、仕事と学業を大幅に達成できたのです。意根の潜在能力は計り知れず、ただ意識と体力が追いつかず体が耐えないのが問題です。

私の説法方法もこれと同じです。一つの法義について心を静めて没入すると、様々な考えが絶え間なく湧き出ます。時には体が疲れ、意識が追いつかず、思考を全て文字に記録できません。頭の中の意念を文章化するのは気血を消耗します。気血は私にとって貴重な資源ですから、節約せねばなりません。断片やキーワードだけ記録し、後で見返せば思考が再現できます。しかし記録が膨大になり整理する時間がなく、新しい着想が次々現れるため、古い記録は何年も積み上がったままです。このため弟子たちの質問に対応できず、どの教えも文章化して発表できません。

意根を使いこなせば、本当に尽きることのない智慧が得られます。意根は決して休まず、意識の精力は到底追いつきません。言葉や文字では意根の思想に追従できず、智慧を文章化できないのが惜しまれます。頭脳明晰な者は自ら享受する分には問題ありませんが、他者に伝えるには障壁があります。それでも意識は冴えていても意根に智慧がないより遥かにましです。意識だけが冴え渡り巧みに語っても、実際は中身が伴わない場合があります。

意識と意根が必ずしも一致しないことが分かります。私たちは時々物事を成し遂げられますが、それを要約して言語化するのは非常に困難だったり、時間と労力が足りなかったりします。例えば大阿羅漢の周利槃特伽は意根の悟りの境地が極めて高かったものの、それを言葉で表現して衆生を利益することができませんでした。これは意識の智慧の欠如です。意根は達成しても意識が説明できず、実行はできても説明できない。逆に、意識は巧みに語るが意根が行動できない者もいます。諸仏菩薩は長年にわたり衆生を教化してきたため、実行と言葉が一致し、意根の智慧である宗と意識の智慧である教の両方に通じています。

意根から生じる智慧の境地を見ると、意根の智慧が開花し完全に発動されると、決して劣らずむしろ強盛になります。意識の智慧はかえって劣弱に映り、意根のリズムに追いつけず、三昧の境地を言葉で表現できず、しばしば理解も及びません。修行が深まるにつれ意根の智慧はさらに深遠になり、ついには六識の機能を完全に代替して六識を滅却し、一つの力で七識を統べるほどに至ります。このような機能と智慧の強大さは、意識が「劣弱」とすら言えない域に達しています。古来より意根の智慧を劣ると説く人々は、この事実を目の当たりにしどう考えるのでしょうか。未だに迷妄に陥り、不完全な意識思考による理論に固執し続けるのでしょうか。今後は聖者たちの実証済みの境地をもって、これらの虚妄で不完全な思想観念を打破していきます。

——生如法師の開示
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