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日常開示

2025年04月21日    月曜日     第1 回の開示 合計4372回の開示

大迦葉菩薩の意根円通法門(意根修練篇)

楞厳経において大迦葉菩薩が自らの修証した円通法門を述べる:我れ世間を観ず。六塵変壊す。惟だ空寂を以てするのみ。滅尽に修し。身心乃ち能く。百千劫を度す。弾指の如し。我れ空法を以て。阿羅漢を成ず。世尊我を説く。頭陀を最もと為す。妙法開明す。諸漏を銷滅す。仏円通を問う。我の証する所が如く。法因を上と為す。

大迦葉曰く:我は世間における六塵の境界が絶えず生滅変化し、無から有へ、有から壊れ滅し空へと至る過程を観察し、これら全てが依拠すべきものではないと悟りました。ただ空寂の心をもってこれらの法を空じ、身心を常に滅尽定の中に置くのです。この三昧の境界においては、百千劫という長大な歳月が、ただ一弾指の短さに感じられます。私は六塵の境界法をことごとく空じたことにより、阿羅漢となったのです。

滅尽定の中で六塵の境界を心より滅し空じることは、何を意味するのでしょうか。これは六識もまた滅じ、再び生起し得ないことを示しています。六塵は六識が生起する縁であり、縁が具わらなければ識は生じません。六識が滅すれば、意根と如来蔵のみが残ります。大迦葉は滅尽定の中に安住せざるを得ません。では大迦葉は定から出るのでしょうか。世俗界の人事に対応するのでしょうか。対応が必要な時はどうするのでしょうか。大迦葉が法を滅尽するまで修行を極めたとはいえ、大菩薩には衆生利益の責任があり、常に滅尽定の中に留まり何もしないわけにはいきません。定から出ても滅尽法の三昧の中にあり、全ての利生事業を行います。これは不可思議です。法が空じられているのに、どうして利生事業ができるのでしょうか。利生事業もまた法ではありますまいか。

楞厳経に次の一節があります:摩訶迦葉久しく意根を滅す。円明に了知す。心念に因らず。これは大迦葉が平常どのように事に対処し人事に応じていたかを示しています。どうやって事に対処したのでしょうか。意識の心念を用いずに、円満清浄明瞭に六塵の境界を了知していたのです。

普通の人にとってこの境界はあまりにも玄妙で不可思議ではないでしょうか。意識を用いずに六塵の境界を知り、しかも常人よりも円満で清明透徹に知るとは、どういうことでしょうか。それは意根が知るのです。意根が六識の了別作用に代わり、換言すれば意根自らが直接了別し、六識の補助を要さず、主人自らが全ての事を成し得る状態です。助手を全て解雇したようなものです。これは主人の精力が充実し、能力が向上し、全ての事を独力で対応できることを意味します。このような意根の力は並大抵ではありません。これは普通の人が持つ意根でしょうか。正確に言えば、このような意根を持つ人が普通の人であり得るでしょうか。それは八地菩薩に相当する大迦葉なのです。

文中に「久滅意根」とありますが、これは大迦葉が早くから意根を滅したということでしょうか。ここでの意根は主体となる第七識を指すのではなく、意識が生起する根源を指しています。もし第七識が滅すれば無余涅槃に入り、もはや大迦葉という存在は世に存在せず、どうして円明に了知できましょうか。

では意識が生起する根源とは何でしょうか。意識の生起には幾つかの縁が必要で、その内一つが欠けても意識は生じません。縁の中には法塵境が含まれますが、主なものは意根である第七識の作意です。法塵境が現れた後、意根が境を弁別し了知しようと作意せず、境に心を留めなければ、意識は生起し得ません。これが修行の最も重要な点です。意根が六塵の境界に対して了別の心を起こさず、六塵と万法を空じれば、六識は全て生起し得ません。よって意根が境に心を留めないまで修行を極めれば、意識が生起する根源を滅したことになり、これが大迦葉の「久滅意根」の三昧境界です。

しかしながら円明に了知できるとは、意根が既に心を留めず境を了別しようとしないのに、どうして了知でき、しかも円明に了知できるのでしょうか。これは意根の自然な無心任運の了別機能です。カメラが作動していれば全ての景観が自然にカメラに入るように、意根もまた無心のままに塵境を自然に現前させます。もし意根というカメラが作動しなければ無余涅槃に入りますが、菩薩はそうしません。作動させたまま衆生利益の事業を行うのです。全ての利生事業は意根単独で成し遂げられます。では意根に善心所の法はあるのでしょうか。意根の智慧は強大ではないのでしょうか。決して劣弱ではないでしょう。特に初地菩薩以降、意根が識から智へ転じた後では、意根の慧がどうして劣弱であり得ましょうか。凡夫の意根でさえ時として智慧を有し、劣弱ではありません。意根の機能はこれほど殊勝なのですから、私たちがどうして努力してこれを修め訓練しないことがありましょうか。


——生如法師の開示
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