私たちは通常、瞬間ごとに縁する法(対象)が多すぎるため、思考が散漫になり、思惟が分散し、精力が散ってしまい、縁しているどの法もはっきりと捉えられず、智慧が生じません。その結果、身口意の行いが錯乱し、貪瞋痴の煩悩業を造ってしまいます。もし心を精専に用い、思惟を深く透徹させることができれば、縁する法を見透かすことができ、愚かな行いをせずに解脱することができるのです。
意根が外界への攀縁を減らし、注意力を一点に絞って一時点に一法だけを縁するようにし、集中力を高めるために訓練するには、自分に適した観行の所縁(対象)を探し、意根が興味を持ち、かつ契入(深く入り込む)できる目標を見つけ、純粋に観じ、直感的に観じ、雑念を排して観じられるようにする必要があります。集中力が高まってこそ、智慧も高まっていくのです。
では、どのような所縁を選べば契入しやすいでしょうか?『楞厳経』では、二十五聖がそれぞれ六根・六塵・六識において円通を悟り、地水火風空識の六大において円通を悟っています。つまり、いかなる一法も観行の対象となり、円通を悟ることができるのです。円通とは、円満に通達すること、円満にその法の空(小乗の空理、大乗の空性)に契入し実証することを意味します。六根・六塵・六識・六大のいずれにおいても円通が可能ならば、法法(すべての現象)が円通の道であり、法法が悟りへの入り口なのです。しかしながら、精力には限りがあるため、修行者はそれぞれ自分に合った一つの入り口を選び、専一に観行の功を積み、突破を目指し、道に入る(悟りを得る)必要があります。道に入った後は、次第に法法皆通(すべてに通じる)となるのです。
もし眼根を入り口として選ぶならば、眼根に対応する色塵(視覚対象)を選ぶ必要があります。適切なものを選び、心が受け入れ、快適で愉しいと感じられれば、観行は思うがままに進みます。選ぶ対象は単純明快で、大きすぎず、形や色合いが複雑でなく、過度の注意を引かず、様々な考えや感情を引き起こさないものが良いでしょう。そうでないと妄想が飛び交い、修行の本来の目的に反し、正常で平淡な観行に入れなくなります。
単純な色塵としては、線香の先端、豆類、球類、筆類、自分の指先、つま先、髪の毛、衣服のボタンなどが挙げられます。こうした単純な色塵、特に馴染み深いものは、探求や分析の必要がなく、情緒の動揺を引き起こさず、心境を平淡に保ちやすく、専念しやすいのです。
観行する時は、直感だけを用いて観じます。色塵に何があるかを見て、見えない部分を頭で補ったりしてはいけません。これが現量観行です。頭で補うのは非量観行であり、取るべき方法ではありません。結果は真実でなく、得るべき結果も得られません。色塵を観るのは、色塵を研究することではありません。色塵の大小、方円、長短、色の鮮やかさなどを思惟する必要はありません。それは意識が分析する内容です。そうした分析は無益であり、観行の結果はそれらとは無関係です。三昧を証得するのは、そうした内容においてではありません。では、いったい何を観て何を証得するのか?と疑問に思う人もいるでしょう。修行の道に深く入れば次第に分かってきます。その妙は言葉では言い表せません。どれほど妙であるかは、二十五聖の三昧の境界を見れば分かります。
もし耳根を入り口として選ぶならば、縁する声塵(音声対象)を選ぶ必要があります。音声は起伏に富んだものであってはならず、あまりにも心地よく美しすぎてはいけません。そうでないと情緒が動揺し、あれこれと思いを巡らせてしまいます。音声は単調で、かすかなものが良いでしょう。騒音のように心を乱すものは使えません。小型の目覚まし時計や腕時計のチクタク音は比較的適しています。携帯でき、いつでも音を聞くことができ、慣れてくれば、その音を聞くだけで心が静まります。最も便利なのは、自分の心拍音、呼吸音、指先で軽く叩く音、歯を噛み合わせる音などです。木魚の音はさらに良いでしょう。スマートフォンで録音し、自動リピート再生機能を設定しておきます。
もし鼻根を入り口として選ぶならば、縁する香塵(嗅覚対象)を選ぶ必要があります。ほのかな清い香りが良く、香りが強すぎてはいけません。貪心を生じさせないためです。香料の香り、果物の香り、花の香り、青草の香りなどを選ぶことができます。
もし舌根を入り口として選ぶならば、縁する味塵(味覚対象)を選ぶ必要があります。味塵はすべて口の中にあります。最も直接的に便利なのは、唾液や口腔内の味を味わいながら観行するか、ナッツ類を口に含む、棗の種などを口に含むなどです。味塵は淡泊でなければならず、香りが強すぎたり濃すぎたりしてはいけません。そうでないと貪心が生じ、思考が散漫になり、妄念が絡み合い、心が清浄でなくなります。
もし身根を入り口として選ぶならば、縁する触塵(触覚対象)を選ぶ必要があります。触塵は必ず身体と接触するもので、携帯でき、常に身体に付随できるものでなければなりません。そうすると、自分の身体の一部を使うのが最も便利です。例えば、手で軽く額に触れる、脈を押さえる、座禅を組んで座っている時に腰を揺らす、手にボール、小石、数珠、木の実などを握るなどです。ただし、大きな摩擦は避け、心が分散しないように注意します。
もし意根を入り口として選ぶならば、縁する法塵(心の対象)を選ぶ必要があります。単純であればあるほど心を定めやすくなります。例えば、アラビア数字を数える、1から100まで繰り返し数える、小さなポケットの中の大豆の粒を数える、数珠を数える、呼吸を数える、心拍を数える、自分の胎息を数える、念仏を唱える、真言を唱えるなどは良い方法です。意根から修行するのは、五根から修行するよりもやや難しいと言えます。
行住坐臥(歩く・立つ・座る・臥す)のいずれの状態でもいつでも観に入れる対象を選びましょう。そうすれば観行を途切れなく続けることができ、仕事中や人と話している時にも観行でき、物事の処理に支障をきたしません。人と話している時、内容が特に重要でなく、全身全霊で聞いたり応対したりする必要がなければ、話しながら相槌を打ちつつ、同時に観行することができます。相手の襟や衣服のボタンを観たり、自分の呼吸に注意を向けたり、呼吸を数えたりするなどです。職場で頻繁に会議があり、その会議が特に重要でないならば、この時間を是非とも有効に活用し、無駄にしてはいけません。会議室で任意の一塵(一つの対象)を選び、半分会議に参加し半分観行する、というように両方ともおろそかにしないようにします。
このような直観的な方法は、子供の学習を導く上でも用いることができます。これは集中力を訓練し、定(サマーディ、精神統一)と慧(パンニャー、智慧)を訓練する方法です。世間的なものと出世間的なものの定慧は共通しており、どちらも同じ心を用いています。これをよく訓練すれば、子供の学習成績は自然に向上し、理解力や自学自習の能力も自然に高まり、独創力さえも生まれるでしょう。
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