私には一人の弟子がおり、意根の使い方を会得した後、問題に遭遇するたびに智慧が泉のように湧き出て、解決策が次々と生まれました。解決策が現れるとすぐに実行せざるを得ず、一つひとつの案を実施していくうちに昼夜を問わず働き続け、身体が耐えられなくなってしまいました。智慧が現れた後、頭の中の考えを実行しなければ、後でその発想を思い出せなくなる恐れがあり、大変惜しいからです。一つの問題を解決すると視野が広がり、また新たな着想が生まれるため、その考えを実践して次の問題を解決しなければならず、こうして仕事の鬼とならざるを得ませんでした。仕事の効率は何倍にも向上しましたが、身体がついていきません。
私は彼に助言しました。「これから智慧の閃きが湧いたら、すぐに携帯電話で記録しなさい。簡潔な言葉でメモするか、キーワードだけ残せば十分です。自分自身の意根から生まれた考えなら、後で記録を見返せば意識が内容を再現し、思路が蘇ります。貴重な智慧を無駄にすることはありません」と。
別の弟子は、数年前に私から教えを学んだ後、海外で研修し、わずか15ヶ月で5年分の仕事と学業を達成し、10年分の契約を結びました。これも意根を活用した結果、問題処理の智慧が急成長し、任務を大幅に超えて達成できたのです。意根の潜在能力は計り知れず、ただ意識と体力が追いつかず体調を崩すのが心配です。
私の説法方法もこれと同じです。一つの法義に心を定めて没頭すると、次々と着想が湧き上がります。時には身体が疲れ、意識が追いつかず、思路を全て文字にすることができません。意念を文章化するのは気血を消耗しますが、この気血は私にとって貴重な資源です。節約せざるを得ないため、断片やキーワードだけ記録します。後日見返せば思路が再現されます。しかし記録が膨大になり整理する時間もなく、新しい着想が絶え間なく現れるため、古い記録は何年も積み上がったままです。このため弟子たちの質問に対応する余力がなく、教えを文章化して発表することもできません。
意根を正しく用いれば、智慧は尽きることがありません。意根は決して休まず、意識の精力は到底及びません。言葉や文字では意根の思想に追いつけず、智慧を文章化できないのは惜しいことです。頭脳の明晰さは自己享受には問題ありませんが、他者に伝えるには障壁があります。それでも意識だけが鋭く意根に智慧がない状態より遥かに優れています。意識だけが鋭い人は巧みに語りますが、実際の境地は言葉通りではないかもしれません。
ここに意識と意根が必ずしも一致しないことが示されます。私たちは時々物事を成し遂げられますが、それを要約して言語化するのは極めて困難だったり、時間や気力が足りなかったりします。例えば大阿羅漢の周利槃特迦は意根の悟りの境地が極めて高かったものの、それを言葉で表現して衆生を利益することができませんでした。これが意識の智慧の欠陥です。意根では達成できても意識では説明不能、つまり「能做不能説」の状態です。逆に、意識では巧みに語りながら意根が伴わない「能説不能做」の人もいます。諸仏菩薩は長年にわたり衆生を救済してきたため、意根と意識が調和し「能做能説」の境地に至りました。宗(意根の智慧)と教(意識の智慧)の両方に通じ、二つの智慧共に深遠なのです。
意根から発する智慧の境地を見ると、意根の智慧が開花し充分に発揮されると、決して劣ったものではなく、むしろ極めて強盛になります。意識の智慧はかえって劣弱に映り、意根の三昧境地を言葉で表現できず、理解すら困難な場合が多いのです。修行が深まるにつれ、意根の智慧はますます深遠になり、ついには六識の機能を完全に代替して六識を滅却します。一つの根が七識を統べるこの機能の智慧は、意識が「劣弱」という言葉すら不要なほど強大です。古来より意根の智慧を劣ると説いてきた人々は、この事実を目の当たりにし、どう考えるのでしょうか。未だに不完全な意識思考による理論に固執し続けるのでしょうか。今後は聖者たちの実証済みの境地をもって、これらの虚妄で不完全な思想観念を打破していく必要があります。
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