衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年04月19日    土曜日     第1開示 合計4370開示

衆生はなぜ豚肉を食べることができないのでしょうか?

ある学人が問う:「どうすれば階級に落ちずに済むか?」黄檗禅師は云う:「終日飯を食うも一粒の米も嚙んだことがなく、終日歩くも一片の地も踏んだことがない。このような時、人我などの相なく、終日一切の事から離れず、諸境に惑わされず、初めて自在の人と名づく。更に時時念念、一切の相を見ず、前後三際を認めず。前際は去らず、今際は住まず、後際は来たらず。安らかに端坐し、任運に拘られず、初めて解脱と名づく。努力せよ、努力せよ!この門において千人万人のうち、わずか三、五人しか得ず。もしこれを事とせざれば、殃(わざわい)を受くる日必ずあり。故に着力(じゅうりき)せよと云う。今生にて了却すべし。誰が累劫に余殃を受くべきや!」

ここで「階級」とは修行の次第を指す。「階級に落ちず」とは直接に法の根本的・究極的な境地に至ることを意味する。どうすれば直接に空性を証悟したと言えるか?黄檗禅師は答えて言う:もし成し得るならば、終日飯を食うにも一粒の米も食ったようには思わず、心は空で我に執着せず、終日歩くにも一片の地も踏んだようには思わず、心は空で我に執着せず、自らが飯を食い歩く相に落ちない。この境地に達した時、心中に人相も我相もなく、終日一切の事から離れず、しかも諸境界に迷わされず、諸相に縛られない。そうして初めて自在の人と言える。更に時時念念、一切の相を見ず、一切の法に前際・現際・後際があると考えてはならない。なぜなら前際は去っておらず、現際も念念として留まらず、後際も来ないからである。一切時に安らかに端坐し、任運に行い、法に縛られない。これを解脱という。

これは禅宗の般若証悟後の境地であり、五蘊空の境地である。なぜ空なのか?如来蔵より生じたから空というのである。この境地は小乗の空の境地より一歩進み、凡夫の有の境地とは比べものにならないほど高いが、それでも唯識の空の境地ほど究極的ではない。小乗と般若のレベルでは人空(にんくう)であり、唯識のレベルでは法空(ほうくう)である。法空は人空の基礎の上に、更に細やかで深く、範疇がより広く深い。

例えば食事という事柄について、般若のレベルでは「我が飯を食うこと無く、飯を食う我無し」、つまり我は食事する我相に執着しないと見るが、唯識では飯の相すらない。皆が興味を持つ豚肉を食べる件について言えば、五蘊は根本的に外相分の実質的な豚肉には接触できず、後頭部の中の内相分の豚肉にしか接触できない。しかし豚肉を食べた後、内相分の豚肉が無くなるだけでなく、外相分の豚肉も無くなるのはなぜか?

実質的な豚肉に接触できないなら、豚肉を食べていないことになる。では口に入り腹に収まるものは何か?口が飯を食うが、飯は後頭部の中の飯であり、口と歯と舌も後頭部の中にある。そして飯を食うあなたも空である。あなたは飯を食べたと言えるか?飯を豚肉に置き換えれば、あなたは豚肉を食べたと言えるか?あなたが食べたのは内相分の豚肉であり、外相分の豚肉は無くなった。どうして消えたのか?秘密だ。特大の秘密だ。一生かけて参究する価値があり、幾劫にもわたって参究する価値がある。

この法は深遠であり、たとえ小乗の我見断ちや大乗の明心(みょうしん)の基礎があっても、参究は容易ではない。内外相分の生滅はすべて如来蔵が作用を起こしており、六識の機能も如来蔵が作用を起こした結果である。法法ことごとく如来蔵である。悟りを開かなければ根本的に参究できない。

無始劫以来、色声香味触法の六塵境界について、衆生はついぞ一つとして接触したことがない。しかし刻一刻と六塵境界を己のものとし、心と言葉に「これは私のもの、あれは私のもの、私の身体、私の家族、私の言葉、私が聞く音、私が食べる肉、飲む水、寝る床、私の権力・地位・名声等々」と念念有詞(ねんねんうし)する。この香りあの味、あなたはどれにも接触できない。どれがあなたのものか?生々世々追い求め追いかけてきたが、実は空と張り合い、空と奪い合い、空と遊んでいたのである。しかも自分もまた空である。空と空が争う。ゲームの主役すらいない。いわゆる争いもまた空である。皆が世俗法のゲームに時間を浪費するより、真にこれらの真理を探究すべきだ。そうすれば生々世々無駄にゲームをせずに済む。真理は魅力がないだろうか?

ある者が棒でトントンと机を叩き、そして非常に確信を持って言う:見よ、私は机を叩いた、私は威張った、私は鬱憤を晴らした。実際には、棒は後頭部の中の棒、手は後頭部の中の手、机は後頭部の中の机、行為は後頭部の中の行為、この行為を見るのは後頭部の中で見て、音を聞くのは後頭部の中で聞き、鬱憤が晴れたと思うのは後頭部の中で思う。すべての五蘊活動は後頭部の中で造作されている。

後頭部がどれほど大きくてこれほどの法を収容できるのか?これらだけではない。億万の法、無量数の法がすべて後頭部の中で起こっている。空の法、実質の性質なき法こそが後頭部の中に落ちるのである。実質ある有相の法は後頭部の中に落ちない。世間の一切の法には実質がなく、すべて空であり、すべて影像であり、すべて影である。豚肉もまたそうであり、豚肉を食べることもまたそうであり、私が豚肉を食べることも同様にそうであり、その人その事はない。何を執着し何を追い求めるというのか?愚か者たちよ!

この理を証得するには、まず我見を断ち、次に明心(みょうしん)しなければならない。我見を断ち五蘊空を証得することは非常に重要である。内外相分の問題は、悟りを開いてから参究する。禅定と智慧が共に深まって、初めて少し道筋が見える。如来蔵という角度から参究してこそ見当がつく。なぜなら一切の法の実質は如来蔵の功能作用だからである。

如来蔵と五蘊の私は、世のいかなる法にも接触も所有もしたことがない。しかし世の一切の法の外相分と内相分は、そのように絶えず生滅し、絶えず造作されている。この現象は確かに人々が受け入れにくい。空の法は、世の人々には信じ難く、有に執着する習慣がある。しかし仏法は大乗であれ小乗であれ、すべて空を指し示している。空が究極まで進み、一糸もまとわず、徹底的に究竟空(くきょうくう)となれば、即ち仏となる。

——生如法師の開示
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