「器」とは物を載せる容器を指しますが、この「物」は物質的なものに限らず、智慧や思想・観念をも包含します。仏法において説かれる「器」は後者、すなわち「道器」を指し、仏法の道を受け容れる器量を意味します。多くの衆生は無始劫来の福徳不足により経験を積む機縁に乏しく、自らの認識を超えた法を受け入れられないため、これらを「根器が劣る」と評し、深遠な法門を修学するに適さないとされます。
では「非器」は永久に器となり得ないのでしょうか。法に定まった相はなく、縁起の時節が熟せばいかなる法も変化します。ある非器には大器が潜んでおり、巧みに覆いを除き因縁を集めれば、非器は大器へと転じます。石塊さえ黄金に変じ得るというのに、ましてや人間の心量や心性が固定不変であるはずがありません。
真実を申せば、衆生は本来すべて非器であり、無始劫より生死苦海に甘んじて沈み、覚醒を望まず、いかなる法も受け容れません。諸仏菩薩が密かに衆生に法種を植え付け、因縁の早熟を促すことにより、次第に器を形成し仏法を受け容れ得るようになるのです。衆生は当初すべて五蘊を我と執着し、その固着は微動だにしません。小乗の無我の法から見れば、一切衆生は非器です。しかし衆生が非器であるからと小乗の我見断滅の理を説かずにいられるでしょうか。断じてそうではなく、釈尊は十二年の歳月をかけて衆生を器へと鍛え上げ、数多の衆生を四果の大阿羅漢へと導かれました。その中には非器の外道衆も含まれていたのです。故に器と非器は鍛錬者の智慧と工夫に懸かっており、鍛錬の法を知らぬ者は往々にして器を非器に貶め、器を毀損してしまいます。
仏法に「非器に深法を説けば信受できず誹謗の言行を生ず」との説があります。これは元来釈尊が説かれたもので、衆生が法を謗って悪業を造り長劫にわたり地獄苦を受けることを憂慮されたためです。仏は衆生を慈悲深く救われますが、同時に大智慧を具えておられるため、この説は固定的な教条ではなく、人と時によって柔軟に運用されるものです。
大智慧の文殊菩薩はこの柔軟な運用に長けておられました。かつて五百人の小乗根器の比丘に般若の大法を説かれた際、彼らはこの大法を信じず命終して地獄に堕ちました。ある者が文殊菩薩に「この結果をご存知ながら、なぜ説法なされたのか」と問うと、菩薩は「彼らが地獄で自らの堕落の原因が般若大法への不信にあると反省し、般若の威力に畏敬の念を抱き真心で懺悔すれば地獄を脱することを知っていたからだ」と答えられました。地獄を出た彼らは天界に昇り、再び人間界に生まれ般若大法に遇い、遂には大乗菩提を証得して修行の時劫を短縮し、速やかに成仏を果たしたのです。
等覚菩薩の名に恥じぬ大智慧により、非器を強靱に大器へと鍛え上げられました。文殊菩薩は非器を琢磨する名匠であり、法眼をもって無量劫の因縁を照らし、一旦非器を破壊し溶解した後、新たに大器を鋳造されます。五百比丘が文殊菩薩に遇えたのは稀有大福徳の縁によるもので、もし無智の師に遇えば大乗般若を説かれることなく、彼らの命運も転換し得なかったでしょう。結びに申せば、器と非器は法に定相なく、善縁に遇えば非器もまた器となるのです。
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