衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年04月17日    木曜日     第1 回の開示 合計4369回の開示

非器は器となり得るか

器とは、物を載せる容器を指しますが、この「物」は物質であることも、智慧や思想・観念であることもあります。仏法でいう器は後者、すなわち道器を指し、仏法の道を受け容れる器量を意味します。多くの者は無始劫来の福徳不足により、積み重ねた経験が乏しく、自らの認識を超えた法を受け入れられないため、これらの人々を「根器が良くない」と評し、深遠な法を修学するに適さないとされます。

では非器は本当に非器のままで、器へと変えることはできないのでしょうか。法に定まった法はなく、永遠に変わらぬ法は存在しません。因縁の時節が至れば、あらゆる法は変化します。ある非器には大器が潜んでおり、巧みに覆いを取り除き、因縁を集めれば、非器は大器へと転じます。石でさえ黄金に変わるというのに、ましてや非器の人間がどうして固定したままでいられようか。

実を言えば、衆生は本来すべて非器であり、無始劫より生死の苦海に沈淪することを甘んじ、覚りを求めず、いかなる法も受け入れません。諸仏菩薩が密かに衆生に法種を蒔き、因縁の早熟を促すことで、衆生は次第に器となり、仏法を受け容れられるようになるのです。衆生は最初、五蘊を我と執着し、固くて揺るぎません。小乗の無我の法から見れば、一切衆生は非器ですが、だからといって衆生が非器であるからと、小乗の我見を断つ理を説かないでよいでしょうか。もちろんそうではなく、仏陀は十二年をかけて衆生を器へと鍛え上げ、数多の衆生が四果の大阿羅漢を証得しました。その中には非器の外道衆も含まれていたのです。ゆえに器と非器は、研磨者の智慧と修行の力量にかかっています。研磨の法を知らぬ者は、往々にして器を非器に変え、器を破壊してしまいます。

仏法には「非器に深法を説けば、信受できずに誹謗の言行を生む」との説があります。この説はもと仏陀が語ったもので、衆生が法を誹謗して悪業を造り、長劫にわたる地獄の苦報を受けることを憂慮されたのです。仏は衆生を慈悲深く思われますが、同時に大いなる智慧をお持ちでした。ゆえにこの説は固定的な教条ではなく、人と時によって柔軟に運用されるべきものです。

大智慧の文殊菩薩はこの柔軟な運用に極めて長けておられました。かつて五百人の小乗根器の比丘に般若の大法を説かれた時、彼らはこの大法を信じず、命終して皆地獄に堕ちました。ある者が文殊菩薩に問うて言いました「この結果を知りながら、なぜ五百比丘に般若の大法を説かれたのですか」と。文殊菩薩は答えられました「彼らが地獄に入った後、自らが堕ちた原因が般若大法を信じなかったことにあると反省し、それによって般若大法の甚大なる威力を知り、心から畏敬の念を抱き、真摯に懺悔すれば、地獄から出ることができるからです」と。地獄を出た後、まず天に昇り、再び人間界に生まれ、般若大法に出遇えば、般若を修学する縁を得て智慧が急速に増進し、やがて大乗菩提を証得し、修行の時劫を短縮して速やかに成仏するのです。

等覚菩薩たる所以は、大智慧をもって非器を強く大器へと鍛え上げる点にあります。文殊菩薩は非器を研磨する名工であり、無量劫の因縁を照らす法眼で、まず非器を破壊し、溶解した後に直接大器を造り上げます。これは使用に堪えない非器を分解し、再び組み立てて有用な器とするに等しいのです。五百比丘が文殊菩薩に出遇えたのは何と幸運なことか。この大いなる因縁は、大福徳ある者でなければ遇い得ぬものです。もし無智の師に出遇い、大乗般若を口にしなければ、五百比丘の命運にこれほどの転機は訪れなかったでしょう。結びに申せば、器と非器は法に定まらず、善縁に遇えば、非器もまた器となるのです。


——生如法師の開示
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