衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年04月15日    火曜日     第1開示 合計4368開示

経典を読むことで最大の利益を得るには(意根訓練篇)

多くの人は般若空の基礎がないにもかかわらず、唯識について津津楽道(津津として語りたがる)し、その結果、学べば学ぶほどますます「有」に執着し、ますます空ではなくなり、道に背いてしまいます。本来、唯識はすべて一切の法が空であることを指し示しているのに、多くの人が研究すると、実在する有法に変わり、一つの学問となってしまう。これは唯識学の不幸です。この状況を打開し、基礎部分を補うため、今から般若法門の修学に立ち戻り、重点的に取り組む必要があります。般若法門は承前啓後(過去を受け継ぎ未来を開く)の役割を果たし、小乗の我見を断つ助けとなるだけでなく、唯識の修学にも役立ちます。般若学の基礎がなければ、唯識を学ぶのは戯論(無意味な議論)に過ぎません。釈尊が説かれた般若経は六百巻あり、毎日一部分を読み続ければ、日が経つにつれて般若法門への理解が深まり、心はますます空となり、世間の相に執着しなくなり、身心は変化していくでしょう。

経典を読み、仏意を理解し、大きな利益を得るためには、一定の方法が必要です。まず第一に菩提心を発(おこ)し、その菩提心を修学の全過程に貫くことです。その上で、菩薩の六度を修行し、その後は専心努力して道を究めます。経典を読む方法には一般に三種類あります:第一は、意識が口だけで心なく読み、意根が方々に妄想を巡らせる方法。第二は、妄念が減り、意識が専心して経典を読み、意根の妄想が少なくなり、共に経文に注意を向け、一定の空間を残して経意を思惟理解する方法。第三は、経文に熟達した時、意識は読まないか、声に出さずにゆっくり読み、意根の思考と参究(深く究めること)に合わせ、意根を経文に集中させ、絶えず経文について思考を巡らせる方法です。

第一の方法は最も初歩的な読経の方法で、純粋に読むだけで、経文の理解は必要ありません。第二、第三の方法に移行して初めて、読経の効果が得られ、経文に対して一定の思考を持ち、経文を正しく理解し、経文の意涵を把握し、それによって自らの修行を効果的に導くことができるのです。

では、第二の読経方法をどのように実現するのでしょうか? 経典を読むには心を専一に集中し、雑念を乱さず、意根の広範な攀縁(縁に心が引かれること)を禁じ、意根を縛って経文だけに注目させる必要があります。経典を読む時はゆっくりと読み、思惟して理解する空間を残し、意根が思考する時間も与えます。重点部分や疑問点に達した時は一時停止し、意根が動ずることなく思量し消化するようにします。これは読経の質を重視するものであり、任務をこなすような速度を求めるものではありません。

この段階がほぼ達成できたら、第三の読経方法に移行します。思考の大部分を意根に任せ、意識は意根を各部分の経文に導く役割だけを担い、意根に各段落の経文の重要な部分を一つの点として心の中に凝集させ、懸けておき、単独で心の中で思考参究させます。読誦が非常に遅く妄想がない時のみ、意根は読誦の影響を受けず、法義を心に懸けて、自ら思考することができるのです。

これは慧(智慧)を修める過程であると同時に、定(禅定)を修める過程でもあり、定慧を同時に修め、法理が心に入れば、心はますます空となり、ついには身心が変化します。経典を読むことに熟達した人は、そこに座ると、あたかも老僧が入定したかのようで、目は経文にあっても注意力は意根の黙々とした思考にあり、非常に集中しているため、禅定が生じ、身心は暢快で開朗となり、心開き意解け(心が開け理解が深まる)、慧思(智慧の思考)が泉の如く湧き出で、智慧が朗々たる太陽のように心の田畑を照らし、極めて潤いを与えます。何事を行うにも心の用い方にかかっており、正しい発心(菩提心)が必要なだけでなく、専精(専心努力)と正しく道理にかなった方法が必要です。そうすれば、結果は労半ばして功倍するだけでなく、それを超越する可能性さえあるのです。


——生如法師の開示
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