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日常法話

2025年04月14日    月曜日     第1開示 合計4367開示

薬師経による意根の善悪性の証明

薬師経原文:像法の転ずる時に。諸の衆生有り。種々の患に因って困厄せられ。長く病みて羸瘦(るいそう)。飲食すること能わず。喉唇乾燥す。諸方暗しと見る。死相現前す。父母親属。朋友知識。涕泣して围绕(いこう)す。然れども彼の自身は。本の処に臥す。閻魔の使を見る。其の神识を引きて。閻魔法王の前に至る。然るに諸の有情に。俱生神(ぐしょうじん)有り。其の作る所に随って。若し罪若し福。皆な具(つぶさ)に之を書き。尽く持して授与(じゅよ)す。閻魔法王に。爾(そ)の時に彼の王は。其の人を推問(すいもん)し。作る所を計算し。其の罪福に随って。而(しか)る後に処断す。

釈:像法の時期において、衆生の福徳は薄く、過去世および現世に造作した悪業の種子が成熟し、悪業の果報に因って困厄され、長く病み臥せ、身体は羸瘦(るいそう)し、食事も喉を通らず、口渇き、見るものすべてが暗く光を失い、死の相が目前に現れる。その父母や家族は泣き悲しみながらその身を取り囲む。しかし病人の身体は病床に臥したままであり、その神识(しんじき)は黑白無常の鬼(こ)に護送されて閻魔王の面前に連行される。病人の俱生神(ぐしょうじん)は自らが一生に造作した罪福の業をすべて顕現し、閻魔王に提示する。この時、閻魔王は病人を審問し、彼が造作した業行の罪福の多寡を判断し、その業報を定め、行くべき処を決定する。

有情衆生はすべて俱生神(ぐしょうじん)を有する。これは永劫に存在し滅したことのない主宰識たる第七識・意根(いこん)を指す。無常の鬼が人を引くのも、この作主識たる意根を閻魔王のもとへ導くことを意味する。閻魔王の面前において、一切の人の意根は自動的に自らが一生に行った福罪の業行を顕現し、閻魔王は神通力を持つが故に、心を用いてその人の造作した種々の業行を知り、あたかも銀幕の映像を見るかの如く速やかに閲覧し終えると、閻魔王は審判を開始する。

これは、意根が罪福の業・善悪の業を造作したことを示しており、審判は意根を審(さば)くのである。生きている時の意識(第六識)は既に滅しており、閻魔王のもとまで付き従って来ることはできない。意根と共にあるのは中陰身(ちゅういんしん)の中で臨時に生じた意識である。これは意根に善悪の性質があることを示している。そうでなければ、善悪の業はどうして現れるのか? この時、意識は既に滅しており、作用していない。仮に作用したとしても、それは意根の走使(そうし:使い走り)や助手に過ぎず、意根の仕事を補佐するものである。閻魔王は意識には関与せず、ただ意根を探して罪福の業及び業報を判別するのである。

人が死ぬ時、あるいは半死・仮死の状態では、意識はほとんど作用しない。意根は如何なる状況下でも永遠に衆生の主人公であり、作主識(さしゅしき)である。死後あるいは仮死後、意根は業力に引かれて閻魔王の面前に至る。閻魔王が意根の罪福の業を閲覧し終え、なお少しばかりの福徳が使い切られておらず、まだ死ぬべき時でないと見ると、この者の意根を陽間(現世)の色身(しきしん:肉体)の内に送り返す。するとこの者は生き返る。生き返るとは、意根が色身の内に戻り、再び意識を呼び出して活動させることを意味する。

閻魔大王が死者を審判する際、死人の主人(=意根)を探し求め、死人の助手や小兵(=意識)を探し求めないことを知っている。債(借り)にはその主(あるじ)があり、業には更にその主がある。愚か者でなければ、下僚の助手や小兵、雑役夫、使用人、保姆の類を探し求めたりはしない。故に意根は一切の善・悪・無記(むき:善悪に属さない中性)の業を造作することができ、善悪の性質を具え、善悪の心所法(しんじょほう:心の作用)を有するのである。


——生如法師の開示
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