妄心には七つあり、第七識である意根と前六識であり、真心は第八識ただ一つである。意根とは、時を選ばず場所を選ばずに主宰を為す心であり、「私はこうしたい」「私はああしたい」「私はこうすべきだ」「私はああすべきだ」と常に思量し、執取し、攀縁を絶え間なく行い、刻々と主宰を為す。これが第七識の体性である。
一方、六識は六塵を分別するものである。目が色塵を見ると、それが何であるかを知る。この知は眼識と意識の知であり、二者が共同で色塵を了別する。耳が声を聞くと、それが何の音であるかを知る。この知は耳識と意識の知である。これらの知は全て生滅無常であり、生滅変化するものは妄法である。妄想を打つ時の心は意識心であり、妄想を打たないことを知る心もまた意識心である。これは意識心自身に対する反観作用である。座禅を行う時、前際は既に断たれ、後際は生じず、中間の一段が了々分明で明らかである。これが意識妄心であり、意識妄心が自らこの瞬間に念があるかどうかを知っているのである。知がある限り、それは妄である。真心は入定したかどうかを知らず、念想があるかどうかも知らない。
『楞厳経』において仏は説かれている。「知見に知を立てるは、即ち無明の本なり」。これは第六意識の知を指し、第六識の知を真実と見做すことが無明の根本である、つまり妄であるという意味である。また「内に閑を守るも、猶お是れ法塵分別の影事なり」とも説かれている。これもまた、意識心中に事がなく悠々自適の境界を指し、それは法塵境界であり、意識によって分別されたものであり、この心は妄心第六識であって真心ではない。
座禅で無一物の境地に至った時、第六識もまた自らが無一物であることを明確に知り、自らが入定したことを知っている。この知は妄心第六識の反観作用であり、真心ではない。なぜなら、入定したという定境の法塵を分別し了知するこの心は第六識であり、真心はこれを知らないからである。この心を真心と見做して悟ったと思ってはならず、これは悟境ではない。
六塵に対して知があるものは、いずれも真心の知ではない。真心は永遠に六塵を知らない。法塵もまた六塵の一つであり、入定の境界は法塵境であって、意識心によって了知されるものである。たとえ三界の中で最も高い定である非想非非想定に至っても、定中にはなお「想」があり、この想が知であり、これも第六識である。知を滅すれば、四果阿羅漢を証得し、直ちに無余涅槃に入り、生を了し死を脱し、三界を出離して解脱を得る。したがって、いずれかの知を真実と認める限り、証果を得ることはできず、我見を断つこともできず、これが生死の凡夫である。
定中に定境を了別し、既に入定したことを知る心は意識心である。意識心が一時的に妄念を離れることで入定できる。意識が定から出ると、直ちに妄念が生じる。一時は念があり、一時は念がないというように変化するものは真実の心ではなく、真実の心は永遠に変わらず、常にそのままであり続ける。況してや定中無念の心は、長く保持することはできず、遅かれ早かれ変化するものであり、全ては一時的に現れた無念の現象に過ぎない。たとえ八万大劫の間入定できても、意識心はやがて定から出る。定から出れば相変わらず念想があり、相変わらず散乱する。したがって定中無念の意識心は生滅法である。第六識の体性は第八識と少し似ている点があり、どちらも形も相もないため、見分けがつきにくい。両者の体性を徹底的に弁別しなければ、誤りを犯すことは免れない。この点は極めて重要であり、生死の大事は曖昧にできない。経典を透徹して学んだ後には自ずと理解できるであろう。
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