衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年04月08日    火曜日     第1開示 合計4361開示

『楞厳経』における意根の修証法:鼻端白の観察(意根訓練篇)

楞厳経原文:孫陀羅難陀は即座より立ち上がり、仏足を頂礼して仏に申し上げた。「私は出家した当初、仏に従い道に入りました。戒律は具足していましたが、三摩地において心は常に散動し、未だ無漏を得ておりません。世尊は私と拘絺羅に、鼻端の白相を観ずるよう教えられました。私は初めて諦観し、三七日を経て、鼻中の気が出入りする様が煙の如きを見ました。身心は内明し、世界を円洞して虚浄に遍じ、あたかも瑠璃の如くでした。煙相は次第に消え、鼻息は白相となりました。心開し漏尽し、諸々の出入息は光明と化し、十方界を照らして阿羅漢を得ました。世尊は私が菩提を得るであろうと記別されました。仏が円通を問われたので、私は息を銷融することにより、息久しくして光明を発し、明円にして漏を滅することを以て第一とします」

孫陀羅難陀が最初に出家したとき、心が散乱していたため三昧を修められず、無漏の道果を証得できなかった。世尊は彼と拘絺羅の二人に、自らの鼻頭の気息が白く変化するのを観じるよう教えられた。孫陀羅難陀はわずか二十一日観じただけで、鼻の中の吸う息と吐く息がどちらも煙のようであるのを見た。身心世界も清らかに明るくなり、世界のすべてが空虚で清浄に変容したことを円満に洞察できるようになり、まるで瑠璃のように澄みきっていた。そこで鼻孔を出入りする気息の煙相は次第になくなり、白色へと変化した。この三昧の中で智慧が開け、煩悩が断尽し、鼻端から出入りするすべての気息が光明と化して十方世界を照らし、阿羅漢果を証得した。世尊は彼が将来無上菩提を証得すると授記された。彼の円通法門は鼻端の出入りする気息を銷融することであり、時が経つにつれて智慧が生じ、円満した後で煩悩を滅尽するものである。

孫陀羅難陀が得た三昧の成就は意根観の成果であり、修証によって得られた成果であって、意識の思惟分析によって出たものではない。意識のいかなる作用も事物の真相や本質を見ることはできず、したがって成果を出すことはできない。成果は意根の修証によってもたらされる。なぜなら意根は事物の真相を見ることができ、大千世界の真相を見ることができ、五蘊の空相を見ることができるからである。これらの真相は意識の想像では思い描けず、意識が触れられる法は、意根が触れる法よりも一層隔たりがあり、一層虚偽を帯びている。意根は如来蔵と緊密に結びついており、触れる法は帯質境であり、直接に本質境から来るもので、その間に移行する法はもう存在しない。一方、意識が触れる法は意根が触れた後に再び変現したものであり、意識が真相を見ようとするのは極めて困難であり、ただ意根に依拠するしかない。

この法門は私が修めたことはなく、具体的な修行過程と殊勝な結果については明確に説明できない。しかしおおまかな修行の着手点は客観的な観照であり、意識による気息への思惟分析作用を加えず、意根の直感によって直接に鼻端の気息を感知し、次第に専一となり、定慧等持によって三摩地に入ることである。いかなる観行法門においても、意識の思惟などの機能が一旦用いられると、もはや観の状態にはなく、当下の境界から離れ、不如実となり、結果は信頼できなくなり、三昧の境界は現れない。意識を多用すればするほど、意根観への遮障は大きくなり、道から遠ざかる。

したがって意根の観を訓練するには、直観の方法を用い、意識の思惟を泯滅させ、意識には牽引作用だけを起こさせ、残りはすべて意根に委ねるのである。意根の観は客観的で実際的な観照であり、現実から離れた非量の想像はなく、境界の変化を主導し、境が心に随って転じ、心が境に随って転じるのではなく、それによって身心世界を変容させることができる。着手点は一見単純に見えるが、実際には功夫が難しい。その理由を究めると、心理的な掛かり合いの人や事柄が多すぎて、心が絡みつかれ、静かで専一な観行状態に入れず、定も慧も現れないため、当然修証の果について論じることはできない。


——生如法師の開示
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