衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年04月09日    水曜日     第1 回の開示 合計4362回の開示

日常生活における意根の訓練(意根訓練編)

意根の訓練は日常の些細なことから始められます。四念処経では呼吸を観じ、白骨を観じ、身行を観じます。楞厳経の二十五聖は六塵・六根・六識・六大を観じます。蝋燭の炎や線香の火種、林檎、花など、各自の都合に合わせて対象を選びましょう。意根が蝋燭や火種に縁すると、意識がそこに生起し、定まって動かなくなります。眼識は他を見ず、意識は他を念わず、心の動きを止め、ただひたすら対象を凝視します。この時、意根は蝋燭観察に縛られ、他に攀縁できなくなり、次第に境地に入り、集中し、一心不乱となり、心は微細になっていきます。

観察とは意根を一点一法に集中させることです。普段の意根は散乱し、あらゆる法に攀縁しながら、どの法も正しく認識できず、真実の姿を知りません。意根の観察が深まるにつれ、意識心は空となり、一念も生じず、ただ炎を知る一念のみが残ります。意根は密やかに観じ続け、禅定が生起する一方で、心の働きが変化し、炎の相への認識が徐々に変容します。真実が顕現し、炎は炎でなく、火種は火種でなく、林檎は林檎でなく、花は花でないと悟ります。智慧が生起すれば空の認識が広がり、三昧が現れ、身心に一連の変化が起こります。

普段の我々の見解は全て誤りです。仮相を見て真実を知らず、あらゆる物に執着します。色受想行識を我とし、色声香味触法を我所とし、財色名食睡を我所とし、権勢地位名声金銭を我所とし、家族眷属を我所とします。自己に関わる全てを我所とし、我と我所のために何でも犠牲にします。修行が我と我所より重要でないなら、六道輪廻に留まるだけではないでしょうか。輪廻は恐ろしくないが、我と我所を失うことが最も恐ろしいと思い込んでいます。しかし本当に我と我所を得たことがあるのでしょうか。幾度も失ってきた我と我所を、守り通せるでしょうか。

この愚痴・愚見・愚執を破るため、一物を観じ続ければ、物の本質、我の正体、執着すべきものの虚妄を体得できます。現前で夢幻泡影を体験し、夢から覚めましょう。夢の中には六趣が明らかに存在するが、目覚めれば大千世界も空しく、過去の迷いが滑稽に思えます。目覚めればそれで良く、過去は帳消しです。覚者は偉丈夫であり、迷える凡夫とは次元が異なります。偉丈夫の成す事業は世人の敬仰に値し、迷える凡夫の行いは哀れみを誘います。

具体的な観行方法と成果は楞厳経二十五聖の円通法門を参照ください。聖者たちは一界一法に拘らず、十八界のいずれかを選んで入道し、優れた三昧を成就し、円通に至ります。一法から入道すれば、全ての法が道となり、一門深入して門門皆通ずるのです。

我見を断つには五蘊十八界全てを観行する必要はありません。自分に適した観点を選び、錐のように一点を突き続ければ、必ず五蘊十八界を破れます。風船は一箇所を突き破れば全体が破裂し、船舶は一箇所の漏水で沈没する如くです。皆さん、早急に実践を始めましょう。夢幻泡影を抱きしめ、偽りの親族を勘違いする愚かさから脱する時です。

——生如法師の開示
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