意根の集中訓練は、日常生活の些細なことから始められます。四念処経では呼吸を観じ、白骨を観じ、身行を観じます。楞厳経の二十五聖は六塵・六根・六識・六大を観じます。私たちは蝋燭の炎や、燃える線香の先端、あるいは一つの林檎、一輪の花などを、各自の都合に合わせて選択して観じることができます。意根が蝋燭や線香の先端に縁(よ)ると、意識がそこに生じ、やがてその一点に定まります。眼識は他を見ず、意識は他の法を念わず、心念を動かさず、ただひたすら蝋燭や線香の先端を見つめます。この時、意根は蝋燭を観じることに縛られ、他に攀縁(はんえん)できなくなります。次第に境に入り、次第に集中し、次第に一心となり、心は微細になっていきます。
観じるとは、意根を一つの場所・一点・一法に集中させることです。普段の意根はあまりに散乱しており、あらゆる法に縁(よ)りながら、どの法もはっきり認識できず、理解できず、その法の真実の姿を知らず、どの法がそもそも法ではないのかもわかっていません。意根の観じることが佳境に入ると、意識の心は空となり、一念も生じないか、あるいは炎を知る一念だけが残ります。一方で意根は密かに観じ続け、観じる中で禅定が生じるのと同時に、心の動きも変化し、炎の相に対する認識は次第に変容します。真実が徐々に浮かび上がり、やがて「炎は炎にあらず、線香の先端は線香の先端にあらず、林檎は林檎にあらず、花は花にあらず、一切の物は一切の物にあらず」と悟るに至ります。智慧が生じると様々な空の認識が現れ、三昧が発現し、身心に一連の変化が起こります。
このように、普段私たちが見ているものはすべて誤った見方であることがわかります。偽りを見て真実を知らず、あらゆる物に執着を起こし、それらを「我」と「我の所有物」と執着します。色受想行識は「我」だとか、色声香味触法は「我の所有物」だとか、財色名食睡は「我の所有物」だとか、権勢地位名声金銭は「我の所有物」だとか、家族親族は「我の所有物」だとか、自分に関わる一切は「我の所有物」だとか。この「我」と「我の所有物」のためなら、どんな代償も払おうとします。修行が「我」と「我の所有物」より重要だろうか? 六道を輪廻するだけではないか? 私は気にしない、輪廻は怖くない、「我」と「我の所有物」を失うことこそが最も恐ろしい――しかし、あなたはかつて「我」と「我の所有物」を得たことがあるでしょうか? あなたはどれほどの「我」と「我の所有物」を失い、それを守る術があったでしょうか?
この愚痴・愚見・愚執を破るために、一つの物を観じ、長期にわたって観じ続ければ、物とは何か、我とは何か、誰が何を執着できるのかがわかるようになります。眼前に夢幻泡影を体感し、夢から覚めるのです。夢の中には確かに六趣(六道)が存在しましたが、覚醒すれば空空として大千世界すら存在しません。かつての己の愚かな迷いを思うと、足を踏み鳴らし胸を叩きたくなります。目覚めさえすれば良いのです。過去は無効、帳消しです。目覚めた後は大丈夫(偉丈夫)であり、目覚める前は迷妄に陥った凡夫でした。身分が変わったのです。大丈夫のなす事業は、あらゆる世人の敬仰に値します。迷える凡夫のなすことは、人に哀れみの心を抱かせるだけです。
具体的な観行の過程と結果については、楞厳経の二十五聖の円通法門を参照してください。聖人方の修行は一界一法に拘らず、十八界の中から任意の一界を選べば、いずれも道に入り、いずれも殊勝な三昧を成就し、いずれも円通することができます。一法から道に入れば、法法ことごとく道の中にあり、これを「一門深入」といい、門門ことごとく通じるのです。
私たちが我見を断とうとするなら、必ずしも五蘊十八界の全てを観行する必要はありません。自分が観じやすい一点を選び、錐(きり)のようにひたすら突き進めば、必ず五蘊十八界を破ることができます。例えば風船は一箇所を突き破れば全体が破れ、舟艇は一箇所が漏水すれば船全体が水中に沈むようなものです。皆さん、早急に行動を起こしましょう! これ以上、愚かにも夢幻泡影を抱きしめ、偽りの親(真実)を父母と誤認するのはやめましょう。
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